牛乳を一本

保科柚葉は、姉の部屋を引き払う日の午後、古い音声メモを一件見つけた。

題名はなく、再生時間は十八秒。姉が自分用に録った買い物メモだった。

『牛乳一本。卵。あと、三〇一号室に牛乳返す。昨日借りたから』

最後に玄関の鍵を探す音がして、録音は終わる。その翌朝、姉は救急車で運ばれ、部屋へ戻らなかった。卵も牛乳も買われず、三〇一号室の借り物だけが、半年遅れの用事として残った。

部屋の壁時計は外してしまったので、スマートフォンの数字だけが時間を進めている。鍵の引き渡しまで四十分。柚葉は財布を持ち、向かいのスーパーへ走った。牛乳売り場には、低脂肪、無脂肪、濃厚、産地限定と並んでいる。姉が何を借りたのか分からない。

音声をもう一度聞く。背景で隣人らしい声が『うち普通のしかないよ』と言っている。柚葉は、いちばん普通に見える青い紙パックを取った。値段も真ん中だった。

エレベーターを待つより階段が早い。紙パックを揺らさないよう抱え、三階まで戻る。三〇一号室の呼び鈴を押すと、白髪の女性が出てきた。柚葉が姉の名前を出す前に、女性は「ああ」と小さく言った。葬儀で一度会っていたらしい。

「牛乳を返しに来ました」

自分でも妙な挨拶だと思った。女性は紙パックを見て、それから柚葉の手元のスマートフォンを見た。

「一本じゃなくて、コップ一杯だったのよ」

柚葉は困って牛乳を抱え直した。女性は少し考え、玄関を広く開ける。

「でも、半年分の利息なら一本でいいわ」

笑う声は明るかった。柚葉は台所まで入らず、靴を履いたまま牛乳を手渡した。女性の指には、冬でもないのに絆創膏が巻かれていた。牛乳を受け取る手つきが、借りた日のコップ一杯まで覚えているように丁寧だった。

女性は冷蔵庫へしまう前に、姉が入院中も時々メッセージを送ってきたことを話そうとしたが、柚葉は鍵の時間があると頭を下げた。今日は話を聞く日ではなく、借りたものを返す日だ。

三〇一号室の扉が閉まる。柚葉は音声メモの項目名を「返した」に変え、姉の部屋へ戻った。玄関のチェックリストで、最後に残っていた四角へ一本の線を引いた。