玄関マットの外
史佳はインターホンの画面に父の顔を見つけても、すぐには応答しなかった。
父は大きな紙袋を足元に置き、もう一度ボタンを押した。
『いるんだろ。電気がついてる』
史佳は受話器を取り、「約束してない」と言った。
『渡すものがあるだけだ』
「そこに置いて」
『写真だぞ。濡れたら困る』
外は小雨だった。父の肩に細い水滴が光っている。
史佳はドアチェーンを掛けたまま、扉を十センチ開けた。父の視線が隙間から室内へ入ろうとする。
「玄関マットの外に置いて」
「顔くらい見せろ」
「見えてるでしょ」
「そんな隙間で話すのか」
「今日は渡すだけって言ったのはそっち」
父は紙袋を持ち上げた。中には古いアルバムが三冊入っていた。表紙の角がめくれ、透明なフィルムの間から、幼い史佳が父の選んだ赤いコートを着ている写真が見えた。
「お前のものだ」
「頼んでない」
「捨てるわけにもいかん」
「だから、置いていって」
「入れてくれれば棚まで運ぶ」
「入らないで」
父の眉が動いた。チェーンが細く鳴る。史佳の手は扉の縁を強く握っていたが、閉めなかった。
「まだ根に持ってるのか」
「その話はしない」
「いつまで逃げる」
「扉を開けないことを、逃げるって呼ばないで。ここは私の家だから」
廊下の蛍光灯が一度だけ瞬いた。父は紙袋を抱えたまま黙った。やがて、玄関マットの上へ置こうとした。
「外」
史佳は繰り返した。
父は唇を結び、袋をマットの向こう側へ移した。わずか二十センチだった。それでも史佳には、長い距離に見えた。
「濡れるぞ」
「すぐ取る」
「今度は連絡してから来ればいいのか」
「来ていいか、聞いて。返事がなければ来ないで」
「親なのに」
「親でも」
父は傘を開いた。二歩進んだところで振り返る。
「写真、嫌なら捨てろ」
史佳は扉の隙間から答えた。
「見るかどうかも、私が決める」
「そうか」
父が階段へ向かうのを待ち、史佳は一度扉を閉めた。チェーンを外し、紙袋だけを中へ入れる。アルバムは重かったが、棚には置かなかった。
玄関マットの内側に座り、史佳は濡れた袋の底を拭いた。扉の外と中を分ける線は、誰かを憎むためではなく、自分が息をするためにある。
遠ざかる足音へ、彼女は小さく「ありがとう」と言った。扉は開け直さなかった。