琥珀蜂領の甘い週末
琥珀沢ノエの果樹領では、土曜日になると樹洞から蜂蜜が流れる。
琥珀蜂は花を荒らさず、一週間かけて香りだけを集める。朝、樹洞の蛇口を蜜樽が自分で受け止め、昼には菓子職人組合の転送札が樽を引き取る。領主の取り分は、小さな銀貨袋と、食卓用の一瓶だった。
ノエが王宮菓子房にいた頃、土曜日は仕込みの山だった。
砂糖で固くなった制服の袖は肘が裂け、靴底には夜勤厨房の粉が染みついている。退職後も菓子長から「祝宴変更」「百皿追加」「至急戻れ」と連絡が来たが、通知の数字だけ見て閉じていた。
初めての土曜日、領地帳が柔らかく鳴る。
〈香蜜八樽、週次契約分を納品。今週の生活費および蜂群保全費を入金しました〉
城の給金ほどではない。だが、パンを焼き、冬の毛布を買い、日曜をまるごと空けるには足りる。
一瓶の蜜は、売れば銀貨数枚になった。それでもノエは毎週、自分用を売らずに残した。王宮では材料を一滴こぼせば叱られ、試作品まで数を管理されたが、この領地は「領主の食卓分」を最初から経費として認めている。暮らす者が味わわなければ、甘さを作る意味がない。そんな当たり前を、彼女は土曜日ごとに少しずつ覚え直していた。
その直後、菓子長の顔が鏡へ浮かんだ。
『明日の婚礼菓子が足りない。戻って蜜飴を作れ』
「蜂蜜なら組合へ納品しました」
『材料の話ではない。お前の手が必要だ。特別手当も出す』
ノエは、食卓用に残った一瓶を光へ透かした。菓子房では味見すら立ったまま、一口で済ませたものだ。
「私の手は、今日は私の朝食を作ります」
『婚礼より朝食が大事だと言うのか』
「私には、そうです」
言い切ると、不思議なくらい胸が軽かった。大きな反抗ではない。ただ、他人の祝いより自分の空腹を先にしてよいと決めただけだ。
鏡を布で覆い、通知を日曜の夕方まで止める。
ノエは厚切りのパンを焼き、香蜜を惜しまず垂らした。窓辺では琥珀蜂たちも羽を休めている。
一口ずつ時間をかけて食べ終えると、皿をそのままにして長椅子へ横になった。洗い物には、締切がなかった。