発酵妻は冷蔵庫に

 夜中の二時、鯨岡香澄は台所で夫の恒士郎を見つけた。

 冷蔵庫の前にしゃがみ、ガラス瓶へ囁いている。

「今日も元気だね。君は本当に手がかかる」

「恒士郎」

 夫は瓶を背中に隠した。

「起きてたのか」

「今、誰と話してたの」

「誰でもない」

「『君は手がかかる』って」

「独り言だ」

「瓶を隠す独り言?」

 香澄が手を出す。恒士郎は首を振った。

「まだ見せられない」

「毎晩二時に会ってるのに?」

「昼は寝てるから」

「夜型の女ね」

「温度に敏感なんだ」

「冷蔵庫に住んでるの?」

「時々、外へ出す」

「その間、何をするの」

「触って、匂いを確かめて、少し味を見る」

 香澄は一歩下がった。

「いつから」

「三か月前」

「私たちの結婚記念日の翌日!」

「あの日、決心した」

「何を」

「もう一度、最初から育てようって」

「育てる?」

「最初は弱かった。でも毎日世話をしたら、膨らむようになった」

「子どもまで?」

「まだ小さい。分ければ増える」

「増やす気なの?」

「うまくいけば町中に」

 香澄は椅子を引いた。

「名前は」

「マルグリット」

「外国人!」

「フランス生まれの方法だから」

「もう聞きたくない。瓶を見せて」

 恒士郎は観念し、ガラス瓶をテーブルへ置いた。中には灰色がかった粘り気のある生地が、ぶくぶく泡を立てている。

「天然酵母の種だ。結婚記念日に食べたパンを家でも焼きたくて、こっそり育ててた」

「これがマルグリット?」

「名前をつけると世話を忘れない」

「毎晩、触って味見?」

「発酵具合の確認」

 香澄は瓶を覗き込んだ。泡が一つ、ぽこんと弾けた。

「私より手がかかる?」

「正直に答えていい?」

「浮気より危険な質問よ」

 恒士郎は黙った。

 翌朝、焼きたてのパンが食卓に並んだ。少し酸っぱく、形は歪んでいたが、香澄は二切れ食べた。

「悪くないわね」

「だろ?」

「ただし、夜中に女へ囁くのは禁止」

 瓶には新しい札が貼られた。

『発酵食品。戸籍上の妻ではありません。夜間の面会は正妻同伴を厳守』。