着陸先は仕事です
槙野絢音は、搭乗口の前で何度も異動通知を開き直した。
東京本社から福岡支社へ。来月から、鵜飼兼成と同じ街で暮らせる。
三年前、前の恋人に合わせて仕事を辞めた絢音は、その選択を今も後悔していた。だから兼成には、誰かのために街を変えることは二度としないと言ってある。
今回の異動は、自分で希望した。新しい部署の仕事にも興味がある。企画書を三本書き、面接も受け、上司には半年かけて希望を伝えた。兼成に会う前から積み上げた仕事の延長にある異動だった。それでも「あなたがいるから福岡を選んだ」と言えば、決断の主語をまた失う気がした。
台風の影響で便は遅れ、搭乗締切まで八分になっていた。濡れた滑走路の向こうで、福岡行きの機体だけが白く浮かんでいた。
兼成から電話がかかる。
「今、空港?」
「うん。下見出張」
「異動の話、本当なんだ」
「仕事だから」
一度目は説明だった。
「俺が福岡にいることは関係ない?」
「仕事だから」
二度目は逃げ道になった。
搭乗を急かすアナウンスが流れる。絢音の名前まで呼ばれた。列の最後尾へ進みながら、電話を肩と頬で挟む。
「じゃあ、福岡に来ても、今まで通り月に一度会う感じ?」
兼成の声は平静だった。
「同じ街なのに?」
「絢音が仕事だけで来るなら、勝手に期待したくない」
保安係が、あと五分ですと指を立てる。前には改札機、後ろには戻れない列。短い会話から逃げる場所はなかった。
「期待って何」
「帰りたい場所に、俺も入ってるかどうか」
絢音は搭乗券を握った。
誰かのために選ばないことと、誰かを選択肢に入れないことは違う。その違いに気づくまで、三年かかった。
「仕事だから行く」
「うん」
「でも、仕事だけなら、福岡じゃなくてもよかった」
電話の向こうが静かになる。
「会いたい人がいる街を、私が選んだの」
係員が改札機を示した。
絢音は通話を切らずに搭乗券をかざした。ゲートが緑に光る。戻るのではなく、自分で選んだ街へ向かうため、絢音はボーディングブリッジを歩き出した。