砂丘の向こうの薄荷茶
犀川野早苗は、離婚届を出した翌日に砂丘の町へ来た。
二人で暮らした部屋を出るまで一か月ある。家具も食器もまだ同じ場所にあり、別れた実感だけが先に住み始めていた。
海と砂しかない景色なら、何も分けなくてよいと思った。
砂丘へ向かう遊歩道で、早苗は靴へ砂を入れた。
払ってもすぐ入り、歩くたび踵がざらつく。
「裸足の方が楽ですよ」
木陰の小さな茶屋から、白髪の女性が声をかけた。
「熱くないですか」
「今日は曇りだから」
早苗は靴を脱ぎ、手に持った。
砂は表面だけ温かく、少し沈むと冷たい。足跡は風が吹くたび輪郭を失った。
長い坂を越えると海が見えた。写真で見たほど青くなく、曇り空を映した鈍い色だった。
それでも波は同じ場所へ寄せては戻り、広い砂の中で迷わない。
帰りに茶屋へ寄った。
女性は硝子のポットへ薄荷の葉を入れ、熱い湯を注いだ。葉がゆっくり開き、青い香りが立つ。
「砂、入ったでしょう」
「靴にも鞄にも」
「持って帰る分ですね」
「いらないです」
「そう言っても、しばらく出てきますよ」
早苗は笑った。
離婚も同じかもしれない。片づけたつもりでも、思いがけない服のポケットや、料理の味から細かな記憶が出てくる。
「夫婦の写真、捨てるか迷ってます」
初対面の女性へ言うと、女性は茶を注ぎ足した。
「今日決めなくても、写真は逃げないでしょう」
「見たくないのに、捨てるのも嫌で」
「箱へ入れて、砂みたいに落ち着くまで置けばいい」
薄荷茶は最初、舌が冷たくなるほど爽やかで、飲み込むと腹へ温かさが残った。
茶屋の軒では、小さな風鈴が鳴らずに揺れている。
宿へ戻る前、早苗はもう一度靴を脱いだ。
足指の間の砂を払い、全部は取れないまま靴下を履く。
完璧にきれいにしてから次へ進む必要はない。
部屋へ帰ったら、写真は捨てず、一度箱へ入れよう。食器も急いで半分に分けず、必要な人が必要なものを取ればよい。
夕方、海から湿った風が来た。
紙袋へ入れてもらった薄荷の葉から、涼しい香りが上がる。
鞄の底では砂が小さく鳴り、終わった暮らしの粒を、時間をかけて一つずつ外へ出していけばよいのだと思えた。