祖母の知らない名前

鞍馬口依澄は、妊娠をきっかけに、死んだ実の祖母・初野へ電話した。

依澄は生後半年で養子になった。育ての母から十分に愛されたし、出自を隠されたこともない。小学生のころ一度だけ名字をからかわれたが、母が「家族になった日に三人で選んだ名字よ」と胸を張った。それ以来、依澄は自分の名を好きだった。血縁を探したいと思ったこともない。ただ、産科で家族の病歴を尋ねられ、何一つ答えられなかった。

初野は接続すると、依澄を「真理花」と呼んだ。

「今は依澄です」

『何を言ってるの。真理花は私がつけた名前よ』

祖母は糖尿病や心臓病の有無より、捨てた娘への言い訳を長く話した。依澄の実母もすでに亡くなっており、初野の話の中でだけ、泣き虫の少女として生きていた。若かった、家が貧しかった、相手の男が逃げた。依澄が質問を戻しても、「真理花なら分かる」と繰り返した。

死者は死亡後の出来事を知らない。依澄がどんな家で育ち、何を学び、誰と結婚し、自分の名前をどう好きになったか、初野には届いていなかった。

三度目の通話で、祖母は言った。

『あなたは、うちの血を引く最後の子なの。お腹の子には家の名前を一字――』

依澄は途中で切った。

その夜、育ての母・志乃へ電話した。

「私の名前、どうして依澄にしたの」

『あなたを受け取った日、泣き声が澄んでいたから。依る場所ができるように、ってお父さんが』

「適当だね」

『親の命名なんて、だいたい願いと勢いよ』

二人で笑った。

依澄は初野から聞いた病歴だけを医師へ伝え、回線を解約した。画面には「血縁者との恒久切断」と大げさな警告が出たが、依澄は確認を押した。血を否定したかったわけではない。けれど血縁は情報であって、命令ではないと分かった。

生まれた娘には、誰の字も受け継がない名前をつけた。

出生届を書くとき、依澄は一瞬、祖母の声を思い出した。真理花、と呼ぶ声。その名で生きた時間は一日もないのに、捨てるには重かった。

依澄は紙の余白へ小さく書き、線を引いた。

消したのではない。自分の人生に置く場所を、自分で決めたのだ。