窓ガラスの向こうの拍手
鴻上美都は、教室で一人、弁論大会の原稿を読んでいた。
声は出ていない。唇だけが動く。
予選で言葉が止まって以来、人前に立つと喉が閉じる。先生は「練習すれば大丈夫」と言ったが、その言葉で大丈夫になれるなら、もうなっている。
戸口に倉持遥生が立っていた。美都が原稿を伏せると、彼は両手を上げた。
「盗み聞きしてない。声、出てなかったし」
美都は机の落書き帳代わりになっている端へ、鉛筆で書いた。
――帰って。
遥生はその下へ書く。
――日直の鍵、俺も待ってる。
鍵は美都が持っていた。追い出せない。
二人は夕日の中で向かい合った。遥生は原稿を読むよう促さず、窓の外を見て、野球部の動きを実況した。声を出さない実況だった。打った、走った、転んだ、と口だけで大げさに形を作る。美都は笑いそうになり、負けた気がして俯いた。
机には以前、誰かが刻んだ拍手の絵がある。丸い手が二つ、線だらけでぶつかっている。
遥生がその横へ書いた。
――読まなくても、ここまでは届いてる。
美都は眉をひそめる。
――何が。
――練習してる音。
――音は出てない。
――机が知ってる。
馬鹿げている。けれど、誰もいない教室なら、失敗しても観客は机だけだった。
美都は原稿を持ち上げた。最初の一行で息が詰まる。二行目は声にならない。三行目に、小さな音が混じった。
遥生は振り返らず、窓の外を見たまま両手を打ち合わせた。音は出さない。掌が触れる直前で止める、窓ガラスの向こうの拍手みたいな動きだった。
美都は最後まで読めなかった。途中で声が消え、悔しくて原稿を机に置いた。
「うそ」
一言だけ、はっきり出た。
遥生が振り返る。
「何が?」
「聞こえたって、うそ」
「うん。でも今は聞こえた」
美都は笑った。泣きそうな顔だったので、夕日のせいにした。
帰る前、拍手の絵の横へ小さく一本線を足した。音が出た日の記録だった。
翌日の大会で、美都はまた途中で止まった。それでも客席の後ろで、遥生だけが音のない拍手を続けていた。