窓際の内線
「内線なら無料ですから」
野々村亮は、用件が小さすぎると桐生亜弓に笑われるたび、そう答えた。
同じフロアの端と端。歩けば三十秒なのに、彼は一日に何度も内線をかけてきた。「会議室、寒くないですか」「昼のパン、残ってます」「窓の外、虹です」。亜弓も、書類一枚の確認を理由に彼の番号を押した。
仕事の回線だから、何度つながっても安全だった。
オフィス改装前の最終日、固定席と内線電話は廃止されることになった。来週からはフリーアドレスで、連絡は業務チャットだけになる。
午後五時五十九分。亜弓が机の引き出しを空にしていると、電話が鳴った。
「桐生です」
『最後の内線です』
「用件は?」
『窓の外を見てください』
顔を上げると、フロアの反対側、夕焼けを背に野々村が立っていた。受話器を耳に当て、こちらを見ている。
『来週から、この番号はなくなります』
「チャットがあります」
『業務チャットですよね』
「今までも内線は業務用でした」
『だから、困ってます』
野々村は受話器を置いた。通話終了の音がして、亜弓の耳に急な静けさが落ちる。
彼はフロアを横切ってきた。手には私用のスマートフォン。亜弓の前で止まると、連絡先の新規登録画面を開いて差し出した。
「これから先、かけてもいい番号を教えてください」
亜弓は何も言わず、自分の番号を入力した。名前欄へ「桐生亜弓」と打つと、野々村が首を振る。
「会社の名簿みたいです」
「では、自分で直してください」
彼は名字を消し、「亜弓さん」と保存した。その場で発信する。亜弓の鞄の中から、初めて聞く着信音が鳴った。
電話に出ると、目の前の野々村が、わざわざ画面越しに言う。
『亜弓さん。今夜、ごはんに行きませんか』
亜弓は通話を切らず、彼の空いた手を取った。野々村の声が耳元と受話口の両方から、小さく息をのむ。
「返事は、これで分かりますか」
『はい』
彼の指が握り返したところで、亜弓はようやく通話終了を押した。
内線なら無料だと、彼は言っていた。
けれど二人は、料金がかかっても、仕事でなくても、切らない番号を選んだ。