笑えなかった自己紹介

十九時五十分。清瀬誠士は地下のライブハウスで、笹生美波とマッチした。出番まで十分。客席最後列にいる彼女とは、芸人を目指して上京した夜から五年会っていない。

美波のプロフィールには〈笑ったら負け〉とあった。高校時代、二人だけで使った合言葉だ。誠士がふざけるたび美波はそう言い、結局いつも先に笑った。告白しようとした夜も、誠士は照れて冗談に変えた。

「毎回、見に来てたの?」

「月に一回くらい。後ろなら気づかれないから」

「ストーカーじゃん」

「そうやって笑いにすると思った」

美波は古い半券を差し出した。誠士の初舞台のもの。裏に〈笑わなかったら、付き合ってと言う〉と書いてある。半券の端は何度も折られ、透明なテープで補強されていた。誠士が売れない年月を自虐するたび、美波はアプリの匿名質問へ励ましを送った。彼が番組で読んだ言葉の半分は、彼女のものだった。誠士は知らずに何度もその投稿をネタへ変え、客席の美波だけが、自分の言葉で彼が笑われるのを聞いていた。

「この日、全然笑ってなかったよな」

「言えなかっただけ。誠士が終演後、先輩たちと朝まで打ち上げに行ったから」

「待ってたの?」

「始発まで」

誠士は知らなかった。客が三人しかいなかった夜、誰より近くにいた人を置いて、芸人らしく振る舞うことを選んだ。

「来月、地元に戻る」と美波が言った。「今夜で最後」

「アプリのいいねは?」

「最後に、本人の前で笑えるか試したかった」

スタッフが残り一分を告げる。美波は席へ戻らず、階段を上がった。

舞台袖で電波が戻り、九分前のメッセージが届く。

〈本当は、面白くないから笑えなかったんじゃない。好きな人に冗談で終わらされたくなかった〉

誠士の台本の最後には、元恋人を笑いものにする新ネタがある。美波なら怒りながら笑っただろう。だが、その笑いをもう逃げ道に使いたくなかった。

名前を呼ばれる。誠士は台本の最後の一行を削除し、何も用意していない明るい舞台へ上がった。