笑わないオルゴール時計
志摩美月は、婚約を解消すべきか迷っていた。
相手に不満はない。むしろ穏やかで、生活も合う。なのに、なぜプロポーズを受けたのかだけ思い出せない。指輪を見るたび、自分が流されて返事をしたのではないかと不安になった。
御影珠緒は、町でいちばん笑わない時計職人だった。喉元には銀の小さな鈴、黒いワンピースの袖口には歯車の刺繍。話しても頷いても、鈴は鳴らない。
「音は記憶より正直」
珠緒は、美月が差し出したオルゴール付き置時計を巻いた。婚約者が初めて部屋へ来た日に持ってきた品だ。
「曲を聞けば思い出せますか」
「曲に期待しすぎ。人は大事な場面ほど、雑音を覚えます」
蓋を開けると、途切れた旋律の合間から生活の音が漏れた。
電気ケトル。換気扇。二人分の箸が触れる音。美月が仕事の愚痴をこぼし、彼が「それは腹が立つね」と言う。正しい助言も励ましもなく、ただ同じ温度で怒ってくれた。
プロポーズの日の映像は、拍子抜けするほど地味だった。
残業から帰った美月は、雨で靴下まで濡れていた。彼は指輪を出す前に、暖房の前へタオルと新しい靴下を置いた。美月はそれを履きながら、まだ何も言われていないのに「うん」と答えた。
「こんな理由?」
「不足ですか」
「もっと、決定的な言葉があったと思ってました」
珠緒はオルゴールの櫛歯を一本起こした。旋律が戻り、同時に彼の声も蘇る。
『毎日、乾いた靴下を用意できるとは約束しない。でも、濡れたままにしない努力はする』
美月は指輪を握った。完璧ではないから、信じられたのだ。
「結婚して大丈夫、とは言ってくれないんですね」
「未来の鑑定は専門外」
珠緒は修理票を差し出した。その裏に、二人で確認すべき項目が書かれている。家事、金銭、働き方、子どもの希望。甘い答えの代わりに、具体的な会話の入口が並んでいた。
「意外と親切」
「料金に含まれます」
美月が笑うと、珠緒の喉元で初めて鈴が鳴った。
「今、動きました?」
「音は記憶より正直」
珠緒は相変わらず笑わない。だが鈴は、客の嘘を暴く道具ではなかった。言葉になる前の安心を聞き逃さないために、彼女が胸元へ置いた小さな耳だった。