粉袋を開けない十五秒

午前四時五十九分、製粉機の横で、木の粉すくいが桐生杏の足元へ落ちた。

「粉はあと一袋。止めずに入れて」

母であり店主でもある真弓の声は、前の人生とまったく同じだった。

杏は言われたまま袋を開けた。換気扇は故障し、空気中には見えないほど細かな小麦粉が満ちていた。十五秒後、古い製粉機のモーターから火花が飛び、粉塵爆発が地下工房を焼いた。

母は杏を庇って亡くなり、老舗パン店は閉店した。事故報告には「見習いが規定量を超えて粉を投入」とだけ書かれた。換気扇の修理費を惜しみ、点検済みの札を偽造した叔父の名は、どこにも残らなかった。

二度目の午前四時五十九分。

杏は木の粉すくいを拾い、製粉機の停止ボタンを押した。

「あと一袋は入れない」

「予約分に間に合わないわよ」

「パンは焼き直せる。お母さんは焼き直せない」

母が目を見開く。杏は主電源を切り、粉袋の口を濡れ布で覆った。次に換気扇の《点検済》札を剥がす。裏には叔父の筆跡で、日付だけが三度書き直されていた。

「杏、勝手なことを――」

叔父が階段から降りてくる。前の人生では、この直後に製粉機へ手を伸ばした。

杏は彼より先に、透明な採光窓を開けた。朝の光が差し込み、空中を漂う粉が白い霧のように浮かび上がる。

母の顔色が変わった。

「こんなに舞っていたの……?」

その瞬間、停止直前まで回っていたモーター内部で青い火花が弾けた。

だが杏が電源を落とし、粉の投入を止め、窓を開けていたため、火花は小さく瞬いただけで消える。爆風も炎も来ない。代わりに焦げた絶縁材の匂いだけが残った。

叔父は逃げようとしたが、母が点検札を握ったまま出口を塞いだ。

午前五時。前の人生では火災報知器と救急車の音が重なった時刻だ。

工房のタイマーが鳴る。

焼き上がった最初の食パンを知らせる、軽やかなベルだった。

母は杏の頬についた粉を拭い、前には一度も言わなかった。

「今日の営業は休む。あなたの判断を最優先にするわ」

店の予約端末には《臨時閉店》ではなく、《安全点検後、明日も営業》と表示された。