紙コップの底の一粒

水守芙美は、深夜バスの発車案内を三度見上げた。

午前一時二十分発、故郷行き。座席は予約してある。荷物も足元のキャリーケース一つだけだ。それなのに、改札へ向かう足が動かなかった。

大学院を辞めたことを、両親にはまだ伝えていない。研究が嫌いになったのではない。好きなまま、続けられなくなった。周囲が論文を積み上げるほど、自分だけが一行も書けなくなり、机に座るだけで息が浅くなった。

電話では「順調」と答えてきた。母は修了式の日を尋ね、父は空いた部屋へ新しい机を置くと言った。帰れば、嘘をついた月数まで玄関に並ぶ気がした。

借りていた部屋はもう解約した。戻る場所は実家しかないのに、その実家へ入る資格だけを自分で失くしたように思えていた。

待合室の自動販売機で、芙美はコーンスープを買った。紙コップは指先に熱く、蓋の小さな穴から甘い香りが漏れた。飲むたび、柔らかな粒が唇へ当たり、いくつかは口に入り、いくつかは底へ戻った。

幼い頃、母が作るコーンスープにも粒が残った。芙美は最後の一粒を取れず、父に紙パックの口を広げてもらった。今思えば、両親は何度も、芙美が自分で届かない場所を黙って開いてくれた。

発車十分前の表示が点滅する。

芙美はスープを飲み切った。けれど紙コップを傾けると、底に一粒だけ残っている。指は入らない。振っても、濡れた底を滑るだけだった。

捨てればいい。たった一粒だ。大学院だって、人生の一部にすぎない。そう言い聞かせたが、芙美はごみ箱へ向かえなかった。

蓋を外し、端を細く折る。即席の匙のようにして底をなぞると、黄色い一粒が載った。見栄えは悪く、指にはスープがついた。それでも芙美は最後まで食べた。

空の紙コップを捨てる前に、スマートフォンを開く。

――今から帰ります。大学院は辞めました。理由は、家で話したいです。

長い弁解を書きかけて、消した。送信するとすぐ既読がつき、母から「駅まで迎えに行く」とだけ返ってきた。

発車案内は残り三分。

芙美は紙コップをつぶさず、丸い形のままごみ箱へ入れた。残してきたものを失敗と呼ぶかどうかは、これから決めればいい。今夜はただ、底に張りついた一粒まで自分で拾った。

改札を通る足は、来たときより少しだけ汚れていて、少しだけまっすぐだった。