綿あめは雲になれなかった
衣装ケースの奥から、細い紙の棒が出てきた。先端に、砂糖が固まった薄桃色の跡がある。
夕映はそれを指で弾き、高校最後の夏祭りを思い出した。
親友の絃葉は、音大を目指して毎日バイオリンを弾いていた。夕映は舞台女優になると言い、二人で「先に諦めた方が焼肉を奢る」と笑っていた。
けれど祭りの夜、絃葉は綿あめを持ったまま言った。
「もう、音大受けない」
右手首の痛みが治らず、長時間弾けない。教師からは努力が足りないと言われ、家族には浪人してでも続けろと言われた。絃葉は説明しながら、綿あめを握る指に力を入れた。
「じゃあ治して、またやればいいじゃん」
夕映は励ましたつもりだった。
「ずっとやりたかったんでしょ」
「やりたかったよ。だから、やめるのがつらいんだよ」
そのとき誰かがぶつかり、絃葉の綿あめが水たまりへ落ちた。大きな桃色の雲は、泥水の中でみるみる縮んだ。
夕映は慌てて新しいものを買おうとしたが、絃葉は止めた。
「もういい」
「せっかくあんなに大きくしたのに」
「大きくした時間まで消えるわけじゃない」
絃葉は棒だけを拾い、屋台のごみ箱へ捨てた。
「やめるのと、なかったことにするのは違うよ」
その言葉を、夕映は長い間、負け惜しみだと思っていた。
二十八歳の今、夕映は小さな劇団で六年目を迎えていた。役を得るために昼も夜も働き、膝の痛みを隠し、好きだったはずの舞台を怖がるようになっている。次の公演の契約書は、衣装ケースの上に置いたままだ。
絃葉は今、楽器店で修理の仕事をしている。演奏はしないが、音の狂いを誰より早く聞き分ける。先月会ったとき、楽しそうに新しい弓の話をしていた。
夕映は紙の棒を見つめた。舞台を降りたら、十七歳の夢に負けると思っていた。けれど続けることだけが、過去を大切にする方法ではない。
契約書を閉じ、劇団へ電話をかける。今季で退団し、以前から興味のあった舞台照明を学びたいと伝えた。声は震えたが、謝らなかった。
電話のあと、夕映は紙の棒を捨てず、工具箱に入れた。
雲にはなれなかった砂糖の跡が、これから照らす舞台の色見本のように、淡く残っていた。