緑青の杯
港城ヴェルナの降伏卓には、緑青の浮いた青銅杯が一つ置かれていた。
城主代行ティベリオ・サーンは、その杯へ水を注いだ。敵将カエル・ヴァッサは口をつけず、緑の縁を見た。
「毒か」
「井戸と同じ水だ」
それが今夜の嘘だった。
城の井戸は毒されていない。だが兵糧は尽き、港は封鎖され、明朝の投石で城壁が割れる。民を外へ出すには、敵に今夜の入城をためらわせる理由が要る。
ティベリオは杯を飲み干した。緑青は酢で浮かせたものだ。水に毒はない。
カエルの副官が鼻で笑う。
「自分だけ解毒薬を飲んだのだろう」
「なら、お前も飲め」
ティベリオは同じ杯へ水差しから注いだ。副官は手を出さない。
「城内すべての井戸へ、銅鉱の粉を入れた。今夜入れば、お前たちの馬から先に死ぬ。三日待てば沈む」
「城の民も飲めぬ」
「明日には城の民ではない」
カエルは窓の外を見た。東門の内側には、退去を待つ人影が詰まっている。毒の話が本当なら、城を取っても水を運ばなければならない。嘘なら、一晩逃がすことになる。
「井戸を見せろ」
ティベリオは首を振った。
「見に入るなら、占領だ。占領するなら今夜から毒の責任も負え」
一回の交渉だった。条件を増やせば、弱さが出る。
カエルは杯を持ち上げ、底を嗅いだ。酢の匂いが残っている。見抜いたかもしれない。ティベリオは視線を逸らさなかった。
「杯は酢で洗ったな」
「毒杯を酒で洗う馬鹿はいない」
「井戸も酢で洗うのか」
「城を取った将軍が考えろ」
沈黙の間に、外で子どもが泣いた。ティベリオはその声へ振り向かなかった。民を気にする顔を見せれば、値段を上げられる。
カエルは杯を卓へ伏せた。
「夜明けまで東門を開けてよい。武器を持つ者は出すな。日の出に我が旗を立てる」
「承知した」
敵将が去ると、ティベリオは吐き気を堪えた。無毒でも緑青を舐めた口は苦い。
彼は伏せられた杯を起こし、城代印を中へ落とした。もう使わない印だった。
港の潮が引き始める。
東門の鎖が巻き上がり、ヴェルナの民へ退去命令が下った。