習字教室の表札

白石紗英は、実家の玄関から〈白石書道教室〉の木札を外した。

閉めるためではない。来月から母が入院するあいだ、教室を休むことを知らせる紙を貼るためだった。けれど木札の裏には、鉛筆で〈二代目 紗英〉と書かれていた。

「おじいちゃんが書いたのよ」

母は座敷で、生徒の月謝袋を数えている。

「聞いてない」

「言わなくても分かってると思ってた。あなた、師範まで取ったでしょう」

紗英は広告会社で文字を扱う仕事をしている。筆を持つのは好きだが、毎週水曜に子どもたちへ教える未来を選んだことはない。師範資格も、母が「履歴書に書ける」と申し込んだ試験だった。

「入院中の代講はする。でも、退院後に継ぐ約束はしない」

母の顔が曇った。

「生徒さんはあなたを先生だと思ってる」

「三か月だけの先生。それ以上は、今決めない」

座敷には、紗英が小学生のころ書いた〈夢〉の額がある。母は何度も「この子は字が好きだから」と来客へ説明した。紗英が好きだったのは、墨が紙へ広がる瞬間であって、家の看板を背負うことではなかった。

母は月謝袋を揃えながら言った。

「私が辞めたら、この教室も終わりね」

責める声ではなかったぶん、紗英の胸へ重く落ちた。

「終わらせるか、他の先生へ渡すかは、お母さんが決めて。私を答えにしないで」

「親子なのに、手伝うだけ?」

「手伝う範囲を決めるから、手伝えるの」

紗英は休講のお知らせを一枚書いた。復帰予定日は空欄にし、問い合わせ先は母ではなく自分の仕事用ではない別番号にした。連絡を受ける時間も、午後六時から八時までと添えた。

木札を戻すと、母が「二代目の字は消すの」と尋ねた。

紗英は裏返し、鉛筆の文字を消しゴムでゆっくり消した。木目の溝に黒い粉が少し残る。

「表の教室名は残す。裏の予定だけ消す」

母は黙って、消し屑を小さな紙へ集めた。

翌週から三か月、紗英は水曜だけ筆を持つ。最後の日に続けたくなれば、そのとき自分で考える。

玄関の木札は以前と同じ場所に掛かったが、裏側には誰の名前もなかった。