船長帽の持ち主
臨海学校の説明会で、浮舟森夏帆は大型フェリーのパンフレットを配った。
「主人がこの会社の船長ですから、船のことは任せて。うちの班だけ上級客室へ変更できるか聞いておくわ」
潮見ヶ原理瀬は、全員同じ部屋割りでよいのではと答えた。
夏帆は肩をすくめる。
「ご主人は港の仕事でしたよね。現場の方には、船長の裁量が分からないのかも」
説明会当日、夏帆の夫・浦賀野航成は制服姿で学校へ来た。妻は子どもたちの前で船長帽を借りようとしたが、航成は渡さなかった。
「これは仕事の制帽だ。写真用ではない」
その直後、船会社の新社長と安全責任者が入場した。
新社長は理瀬の夫・潮見ヶ原慧舷だった。
慧舷は国内外の航路を持つ海運グループの代表取締役で、新造フェリーの基本設計にも参加した船舶技師だった。港へ通うのは、荷役と乗客導線を自分で確認するため。航成は新造船の船長候補で、慧舷の安全審査を受ける立場だった。
夏帆の笑顔が消えた。
「船長は船の中では一番偉いって、主人が……」
航成が首を振る。
「運航中の安全責任者という意味だ。家族の客室を格上げする権限ではない」
実際、夏帆は学校名を使い、船会社へ〈船長家族特別枠〉を要求するメールを送っていた。担当者が断ると、夫を降ろせるのかと脅す文面まで残っている。
慧舷は航成を責めず、家族による権限利用を防ぐ規程を全船へ通知すると告げた。上級客室は、医療的配慮が必要な児童と介助者へ優先して使われることになった。
夏帆は理瀬へ小声で言う。
「社長夫人なら、もっといい船室を選べるでしょう?」
理瀬は子どもたちの共同部屋を指した。
「同じ海を見るのに、窓の値段は関係ありません」
出航の日、航成は船長帽をかぶり、慧舷へ運航計画を報告した。慧舷は最上階ではなく、一般客室の避難経路から確認を始める。
夏帆が勝手に追加した上級客室の予約が削除され、航成が社長へ敬礼した瞬間、船長帽を家族の王冠だと思っていた夏帆だけが、誰の船に乗っているのかを知った。