薬箱のいちばん奥
薬箱のいちばん奥から、子ども用の解熱剤が出てきた。
箱には「碧生 熱のとき」と母の字があり、使用期限は十二年前だった。隣には咳止め、冷却シート、苦い粉薬を飲むためのゼリー。どれも碧生が実家を出てから一度も使っていない。
「捨てるよ」
碧生がごみ袋を開くと、母は台所から走ってきた。
「薬は勝手に捨てないで」
「期限切れてる」
「箱だけでも残しておけば分かるでしょう。あなた、すぐ熱を出すんだから」
二十七歳の碧生は、先月も風邪をひいた。だが母には知らせなかった。知らせれば、玄関前に粥と薬が置かれ、その夜から朝まで着信が続く。心配はいつも、鍵のない見張りのように届いた。
母は解熱剤を取り返し、薬箱へ戻した。
「新しい家にも持っていく。あなたが泊まったとき必要になるかもしれない」
「泊まる予定はないよ」
「具合が悪くなったら帰ってくればいいでしょう」
碧生は薬箱の蓋を閉じた。赤い十字の上に、母が貼った「家族用」というラベルがある。
「具合が悪いとき、帰るかどうかは私が決める」
「心配して何が悪いの」
「心配することと、私を病人のまま置いておくことは違う」
母の指が、解熱剤の箱を潰しかけた。
碧生は一度深く息を吸い、薬箱を三つの袋に分けた。使用中、期限切れ、薬局へ相談。母の血圧薬は使用中へ。古い処方薬は相談へ。自分の名前の箱は期限切れへ入れる。
母は止めなかった。ただ、子ども用の体温計を手に取った。
「これはまだ使える」
先端に、小さな黄色い星のシールが貼ってある。熱を測るたび、母が褒める代わりに貼ったものだ。
碧生は体温計を受け取り、電源を入れた。液晶にエラーが出る。
「電池を替えれば」
「替えない」
星のシールだけを爪で剥がす。粘着が指に残った。
「これも捨てるの」
「うん。必要なら、自分の家で新しいのを買う」
母は「そう」と言い、血圧計を自分の箱へ入れた。しばらくして、薬局相談の袋を持ち上げる。
「これは、私が持っていけばいいのね」
「一緒に行くことはできる。でも、持つのはお母さん」
母は袋の持ち手を握り直した。
解熱剤がごみ袋の底へ落ちる。軽い音だった。碧生は薬箱の「家族用」ラベルを剥がし、母の名前を書いた。自分の体調は、もうこの箱にしまっておかなくていい。