蘭香の朱箱
チャナー・ルークが運ぶ朱塗りの箱には、封印がなかった。
代わりに、蓋の合わせ目から夜蘭の香りがした。王妃だけが使う香油で、一滴が兵十人の月給に等しい。河都を包囲する将軍たちは、印章なら偽造を疑うが、その香りには膝を折る。王妃の私物を勝手に開いた者は、指を七本落とされるからだ。
密書は箱の二重底にある。内容は、雨季で増水した東運河の堰を切り、敵陣の火薬を濡らせという一行だけだった。
チャナーは王妃付きの香具師を装い、敵の水上柵へ舟を着けた。門将プラセート・ナムが箱を嗅ぎ、眉を寄せる。
「王妃は西宮にいる。なぜ東の城へ品を送る」
「姉君への見舞いです」
東城には王妃の姉メイリン・サーンが人質として置かれている。それは誰でも知る話だった。
「封がない」
「王妃様は、封蝋の匂いが夜蘭を殺すと仰せです」
プラセートは笑わなかった。箱を槍の石突で転がし、底を叩く。二重底は鳴らないよう、水牛の脂を詰めてある。
「開けろ」
「私には許されません」
「なら俺が開ける」
門将の爪が蓋へかかった。
チャナーは袖から香油の小瓶を出し、自分の舌へ一滴落とした。苦い蘭香が口へ広がる。すぐに喉が痺れた。香油には、王妃が暗殺を恐れて混ぜさせた弱い毒がある。王宮の者しか知らない。
「本物だと分かるまで、私を見ていればいい」
唇が紫になり、膝が揺れた。プラセートが手を引く。王妃の毒を知る男なら、箱を開けた責任も知っている。
「運べ。こいつは外へ捨てろ」
箱は敵兵の手で東城へ渡った。チャナーは泥岸へ投げ出され、雨を顔で受けた。死ぬ量ではない。だが今夜から、味も匂いも分からなくなるだろう。
箱が渡るまでに三つの水柵を通ったが、どの兵も夜蘭の匂いを嗅ぐだけだった。権力は鍵より便利で、恐怖は封蝋より固い。チャナーは遠ざかる箱を見ながら、王妃本人なら一言で開けられる門を、自分は舌一枚と引き換えに通したのだと思った。
東城でメイリンは香箱を湯へ浮かべた。水牛脂が緩み、底板が外れる。密書を読むと、箱に残った夜蘭の油を灯明へ注いだ。
川向こうで一筋の炎が上がる。チャナーは泥の中からそれを見た。匂いはもうしなかった。
メイリンが水兵へ命じる。
「東運河の堰門を開け」
黒い濁流が、敵の火薬陣へ走り出した。