蛇神薬局の深呼吸
「薬は、症状より正直な人間にしか売らない」
そう書かれた薬局へ、朝香はプレゼン前日の夜に駆け込んだ。
白衣の薬剤師は、首元に銀色の鱗をのぞかせていた。長い黒髪を一本の簪でまとめ、指先で音叉を鳴らす。
「脈は嘘をつかない」
蛇神の環牙は、人間の心音がうるさいから嫌いらしい。朝香が「緊張を止める薬」を頼むと、手首に触れもせず眉をひそめた。
「一分百二十」
「測ってないのに」
「店の瓶が震えている」
明日のプレゼンは、入社以来初めて任された大型案件だった。
資料は作った。練習もした。それでも会議室を想像するだけで息が浅くなる。失敗したら、やはり若手には早かったと言われる。
「眠れる薬でもいいです」
「人間は嫌いだ。怖いものを眠らせれば消えると思っている」
環牙は薬棚から何も取らず、銀の音叉を朝香の前へ置いた。鳴らした音が消えるまで、息を吐けと言う。
一度目は途中で苦しくなった。
二度目は音より先に息が切れた。
三度目、朝香は音を追うのをやめた。冷蔵庫の低い唸り、外を走る車、瓶が触れ合う音が戻ってくる。
「呼吸法ですか」
「違う。失敗しても世界の音は続くという確認だ」
環牙は紙袋を一つ渡した。中身は薬ではなく、白いカードだった。
――途中で止まっても、水を飲んで続きを話す。
――質問が分からなければ、聞き返す。
――震えていることは、提案の欠点ではない。
「こんなの、当たり前です」
「人間は当たり前を忘れるたび、薬に名前をつける」
会計は百円だった。
朝香が帰ろうとすると、環牙の首元の銀鱗が細かく震えているのに気づいた。
「あなたの脈も速いんですか」
「蛇に脈を尋ねるな」
「でも、音叉を持つ手が」
環牙は無言で手を背中へ隠した。明日の朝、朝香がまた来るかもしれないと思っているように見えた。
「脈は嘘をつかないんですよね」
「だから困る」
彼は新しい音叉を一本、紙袋へ追加した。
「速いままで行け。止まっているより、ずっとましだ」
翌日、朝香は冒頭で一度言葉を失った。
音叉をポケットの上から握り、水を飲み、「続きを話します」と言った。
心臓は速かったが、逃げてはいなかった。