蟹の爪を最後にしない

橋爪月乃は、蟹鍋のいちばん大きな爪を、最初に自分の皿へ取った。

いつもなら最後まで残す。好きなものを先に食べる友人たちの横で、月乃だけは楽しみを後へ置く。それを知っている三人が、今夜は誰も爪へ箸を伸ばさなかった。

鍋会の前、友人の一人が妊娠を報告した。皆が祝うなか、月乃も笑って小さな贈り物を渡した。

自分が先月、妊娠を失ったことは言えなかった。

報告のメッセージが届いた日は、病院から帰った翌朝だった。月乃は祝福のスタンプを選び、送ってからスマートフォンを伏せた。今日の贈り物も、売り場で泣かずに選べたことを自分への合格点にしていた。

恋人と二人だけで手続きを終え、仕事にも戻った。まだ早かったのだと思おうとした。名前を考える前だった、部屋を用意する前だった、と失っていない理由ばかり数えた。けれど友人の丸い腹を見た瞬間、祝いたい気持ちと逃げたい気持ちが同じ場所に生まれた。

蓋を開けると、潮に似た香りが湯気に混じった。爪の殻を割ると、白い身が細い繊維になってほどけた。月乃は半分を口へ入れ、残りを殻の上へ戻した。

「ごめん、今日は途中で帰るかも」

言えたのはそれだけだった。

報告した友人は理由を聞かなかった。月乃が残した半分の身へ、乾かないよう殻をそっとかぶせた。それから月乃の鞄のそばへ、温める前の小さな蟹雑炊セットを置いた。

持ち帰っても、捨ててもいいように、透明な袋の口は結ばれていなかった。

月乃は病院でもらった薬の袋を、鞄から落とした。拾おうとした友人の手が、薬の名前の上で止まった。視線が一度だけ重なり、友人は袋を裏返して月乃へ返した。

長い慰めはなかった。

月乃は爪の残り半分を食べず、殻ごと小皿へ置いた。好きなものを残すのは、失ったものを数えるためではない。今日はここまで、と自分で決めるためだった。

立ち上がると、友人が玄関まで雑炊セットを運んだ。月乃は受け取り、袋の口を自分で一度だけ結んだ。

祝いの席から逃げるのではなく、また戻るために帰る。

最初に取った蟹の爪は、最後まで食べなくても、月乃のものだった。