解除しない六十万円

銀行の不正利用監視室で、矢吹佳苗が午前五時の交代準備をしていると、送金制限の解除依頼が一件上がった。

六十万円を新しい口座へ振り込みたいという。本人確認の質問にはすべて正しく答え、登録住所も生年月日も一致している。後輩は〈本人確認済み〉へチェックを入れた。

通話録音を聞くと、女性は一文ごとに同じ長さで黙っていた。回答の前には、遠くで紙をめくる音がする。最後に「急がないと担当者に迷惑がかかるので」と言ったが、何の担当者かを尋ねると、急に言葉が崩れた。

佳苗は解除を保留し、登録済み番号へ銀行からかけ直す手順へ切り替えた。最初の電話は切れ、折り返しには先ほどと同じ声の女性が出た。今度は、背後で紙をめくる音がしなかった。

「さっきから、役所の人に電話を切るなと言われています」

佳苗は送金を止め、専門部署へ引き継いだ。端末を見ると、今夜初めて使われた機器からログインされ、振込先も十分前に登録されている。質問へ答えられたのは、本人が横で指示どおり話していたからだった。

後輩はチェックを外し、「質問が合っていれば本人だと思っていました」と言った。

「本人かどうかと、自分の意思で操作しているかは別。答えが正しいほど、話し方の違和感を消しちゃだめ」

佳苗は引き継ぎ票へ、年齢や金額だけでなく、長い沈黙、第三者の気配、新規端末の組み合わせを記録した。利用者の属性ではなく、状況を見るための項目に変えたかった。

朝、被害は発生しなかったという連絡が来た。女性は家族と支店へ向かうことになった。解除されなかった六十万円は、画面ではただの保留額だったが、本人にとっては何か月分もの生活だった。

佳苗には、春から個人営業へ移る辞令が出ていた。成績が見えやすく、昇格も早い部署だと説明されている。一方、不正分析チームからは欠員募集の案内が届いていた。

誰かに商品を選ばせるより、選べない状態に置かれた人を見分ける仕事を続けたい。

佳苗は人事システムで営業異動への同意を取り消し、不正分析チームの募集へ応募した。