誰も弾かないピアノ
志摩昴がシェアハウスへ入ったとき、居間にはアップライトピアノがあった。
誰も弾かない。鍵盤蓋には郵便物が積まれ、下には掃除機が押し込まれている。前の住人が置いていったと聞き、昴は一度も触れなかった。
半年後、大家から撤去命令が来た。床が沈み始めているらしい。処分業者に頼む金はなく、住人全員で玄関近くの補強された部屋へ移すことになった。
「右、持ち上げろ」
本郷雅臣が声をかける。台車に載せても、敷居を越えない。昴は背面へ回り、指を挟みそうになりながら押した。
「ピアノ経験者なら、重心くらい分かるだろ」
「何で知ってる」
「夜中に机を鍵盤みたいに叩いてる」
昴は音大を中退していた。演奏会で失敗し、実家へ帰れず、この家へ流れ着いた。職業欄には配送補助と書き、楽器の話を避けている。
敷居の前で、左の車輪が外れた。全員で支えたまま動けなくなる。雅臣が床に寝転び、台車を直した。
「一回下ろす」
「下ろしたら持ち上がらない」
「じゃあ、お前が数えろ」
「何を」
「息を合わせる。できるだろ」
昴は反射的に拍を取った。
「三つで上げる。いち、に、さん」
七人の力が揃い、ピアノは敷居を越えた。二度目は階段脇、三度目は曲がり角。昴の声だけが家の中を通った。
新しい場所へ収めると、壁との隙間が狭く、椅子が入らない。雅臣は郵便物を片づけ、掃除機を別の棚へ移した。
「撤去じゃなかったのか」
昴が聞く。
「大家が言ったのは、沈む床からどかせってことだ」
「弾けとは言ってない」
「誰も頼んでない」
夜、皆が寝たあと、昴は鍵盤蓋を開けた。中央のラだけが鳴らない。長く放置されたせいだ。調律費を調べ、画面を閉じる。
翌朝、工具箱から細いフェルトと接着剤が消えていた。ピアノの上には雅臣の字で〈勝手に分解するな。手伝いを呼べ〉と紙がある。
昴はその紙を捨てず、共同予定表へ〈日曜午前・ラの修理〉と書いた。参加者欄には自分の名前しかない。昼に帰ると、横へ六つの丸が増えていた。
彼は椅子を置く代わりに、食卓の長椅子をピアノの前へ運んだ。一人で座るには、少し長すぎる椅子だった。