豆の名前を知らない鍋
更科凪がベランダで洗濯物を取り込んでいると、隣のルイスが硝子瓶を差し出した。
白、赤、黒。三種類の乾燥豆が層になっている。
「故郷の叔母が送りすぎました」
「何の豆ですか」
「日本語の名前、全部は知りません」
凪も豆料理をほとんど知らなかったので、知らない者同士で鍋にすることにした。
凪は定年後、夫婦で旅行するつもりだったが、夫はその前に病気で亡くなった。一人で遠出する気になれず、地図だけが棚に増えていった。
ルイスは日本へ来て二年。仕事では流暢に話すが、休日になると母語を使う相手がいないという。
豆を一晩水に浸す時間はなかったので、圧力鍋を使った。玉葱とにんにくを炒め、角切りのベーコン、トマト缶、柔らかくした豆を加える。クミンを少し振ると、凪の台所にはない乾いた香りが立った。
「これは、あなたの国の料理?」
「似たものはあります。でも今日は日本のベーコンです」
「では、どこの味?」
「このアパートの味です」
鍋が煮える間、ルイスは故郷の海辺の町を携帯の写真で見せた。凪は夫と行くはずだった土地の地図を広げる。
「一人で行ってもいいと思いますか」
「一人だと、写真を撮る人がいません」
「それは困るわね」
「でも、隣の人に送れます」
ルイスが言い、二人で笑った。
豆の煮込みは、種類ごとに歯触りが違った。白い豆はほろりと崩れ、赤い豆は少し甘く、黒い豆は皮がしっかりしている。トマトの酸味とベーコンの脂を、豆のでんぷんが丸く包んだ。
「名前が分からなくても、おいしいわ」
「名前を知ったら、もっとおいしい?」
「たぶん、誰かに話しやすくなる」
食後、残りを二つの容器へ分けた。凪は旅行地図の一冊をテーブルへ残し、春の一泊旅行から始めてみると言った。
「写真、送ります」
「豆の名前も調べて送ります」
窓の外では、洗濯物が夜風に揺れていた。二人の匙が鍋底へ触れ、軽い音を立てた。鍋にはクミンとトマトの温かな香りが残り、知らない土地と隣の部屋が、湯気の向こうで少し近づいていた。