赤字の開始日

深町映里は、内定承諾書の開始日を赤ペンで囲んだ。

四月一日。今の会社で担当している展示会の三日前だった。

退職は法律どおりに申し出れば間に合う。引き継ぎも、誰かに渡せば形にはなる。けれど、映里が集めた出展者の資料はまだ半分しか整理できていない。最後までやり切りたい気持ちと、内定を失いたくない気持ちが、同じ日付の上でぶつかっていた。

机には二冊の手帳がある。紺色は今の会社で使ってきたもの。四月三日の欄には、展示会名と集合時刻がびっしり書かれている。新しく買った白い手帳の四月一日は空白で、最初の予定として〈入社〉と書くつもりだった。

人事からは「開始日の変更は原則難しい」と聞いている。入社前から面倒な人と思われたくない。二十九歳の転職では、柔軟で、即戦力で、迷いのない人に見せなければならない気がした。

映里は承諾書へ署名しようとして、ペンを置いた。

今の仕事を投げ出して入る自分を、新しい会社は本当に即戦力と呼ぶだろうか。逆に、展示会のために内定を断れば、責任感という言葉で動けない自分を飾ることになる。

一瞬、四月一日で承諾し、展示会当日だけ有給を取る案も考えた。どちらの会社にも事情を半分ずつ隠せば、波風は立たない。けれど二つの予定を守るために、最初から二つの嘘を持ち込むことになる。映里はその案を手帳から黒く塗り潰した。

選べないなら、条件を変えられるか聞くしかない。

映里は人事へ電話した。声が乾き、最初の挨拶を二度言った。それでも、担当業務の終了日と、入社を一週間延ばしてほしい理由を伝えた。

長い保留音のあと、開始日は四月八日に変更できると返事があった。ただし研修の一部は資料で自習になる。

「承知しました。私が追いつきます」

電話を切り、映里は白い手帳の四月八日に〈入社〉と書いた。紺色の手帳には、展示会翌日の欄へ〈引き継ぎ完了〉と書く。

両方をきれいに終える保証はない。疲れて、新しい研修で遅れるかもしれない。それでも、誰にも嫌われない日付ではなく、自分が説明できる日付を選んだ。

映里は承諾書の四月一日に二重線を引き、訂正印の横へ自分の名前を押した。