走者の証明
「第二ボタン、くれ」
柳生壱成にそう言われ、犬飼壮平は紙パックの牛乳を吹きそうになった。
卒業式後の部室。陸上部の後輩は校門へ写真を撮りに行き、三年生は二人だけだった。ロッカーには汗の匂いが残り、壁の大会記録は次の代の名前へ貼り替えられ始めている。
「おまえ、意味わかってる?」
「心臓に近いから、大事な人に渡す」
壱成は即答した。
「なお悪い」
二人は三年間、四百メートルリレーの一走と二走だった。壮平はスタート前に左足を二度叩き、壱成は受け取る直前だけ右手を振る。その癖を、互いだけが知っていた。壮平が失速した大会も、壱成は責めずにバトンを受け取った。壱成が肉離れを起こした冬は、壮平が毎朝、自転車を押して一緒に登校した。
県大会の予選で一度だけ、壮平が転び、バトンを落とした。拾って走り切ったあと、壱成は「次は落とす前に投げろ」と笑った。怒られなかったことが、敗退より悔しかった。
恋愛ではない。けれど「ただの友達」と言うには、共有した呼吸が多すぎた。
「県外行ったら、返せないぞ」
壮平が言うと、壱成はロッカーから古いバトンを出した。公式戦では使えなくなった、傷だらけの練習用だ。
「半分に切れないから、こっちはおまえが持て」
「物々交換かよ」
「スタートと二走の証明」
壮平は制服の第二ボタンを引いた。糸は簡単には切れず、壱成が救急箱の鋏を持ってくる。二人で胸元をのぞき込み、どこを切るかでもめた。
ようやく外れたボタンを壱成へ投げると、受け取り方がバトンパスそのものだった。
「落とすなよ」
「一回も落としたことない」
「練習で三回ある」
言い合いながら部室を出る。校門では後輩たちが、遅いと手を振っていた。
集合写真で壱成はボタンを握り、壮平はバトンを背中に隠した。誰にも見えない交換だった。
写真を撮り終えると、壱成は第二ボタンを制服の内ポケットへ入れた。壮平が「見せびらかさないのか」と聞くと、「大事なものはレース中も内側にしまう」と答えた。
その言い方が妙に格好よく、壮平は悔しくて、門を出るまで一歩だけ前を歩いた。
数年後、二人が別々の町で走るのをやめても、壮平の机には傷だらけのバトンがある。壱成の財布には黒い丸が入っている。
恋の伝統を借りなければ言えない友情も、あの日の二人には確かにあった。