車庫裏猫と海老天うどん

 タクシー運転手の鴫原綾乃は、一日の最後の客を降ろしたあと、車庫へ戻る前にコンビニへ寄った。

 買ったのは冷凍うどん、海老天、温泉卵。昼なら少し迷う組み合わせだが、午前二時の判断は早い。

 車庫裏の休憩室へ入ると、窓の外に茶色い野良猫がいた。前足だけ白いので、運転手たちは「手袋」と呼んでいる。餌はやらない決まりだが、手袋は毎晩、誰かの休憩に付き合うように座っていた。

「今日も乗らない客専門?」

 猫は尾を足元へ巻いた。

 鍋へ出汁を沸かし、うどんを入れる。海老天はトースターで温め直し、衣をかりっとさせた。丼へ麺を移し、海老天、温泉卵、刻み葱。七味を多めに振ると、湯気に唐辛子の乾いた香りが混じった。

 綾乃は一日、何人もの話を聞いた。面接へ向かう学生、夫婦喧嘩の途中らしい女性、酔って同じ昔話を三度した老人。相槌を打ち、近道を選び、雨に濡れない場所へ車を寄せた。

 けれど自分が疲れた理由を訊く人はいない。仕事なのだから当然だと、綾乃も思っていた。

 海老天へ箸を入れる。出汁を吸った衣は下だけ柔らかく、上はまだ香ばしい。温泉卵を崩すと、黄身がつゆへ広がり、七味の角を包んだ。

「今日はね、道を三回間違えかけた」

 窓の外の手袋へ話す。

「一回は客が教えてくれた。二回は私が気づいた。事故はなし」

 猫がゆっくり瞬きをした。

「そう。なしなら十分か」

 最後のつゆを飲む頃、体の芯まで温まっていた。綾乃は運行記録の余白へ、自分用に小さく〈無事帰庫〉と書いた。

 休憩室を出ると、手袋も立ち上がり、車庫の塀沿いを歩き始めた。互いに帰る方向は違う。

 綾乃のマフラーには出汁と海老天の匂いが移っていた。エンジンを切ったあとの静けさの中で、自分にも「ご乗車お疲れさまでした」と言ってやりたくなった。

 休憩室の窓は湯気で曇り、手袋の足跡だけが外側にぼんやり残っていた。綾乃は指で小さな丸を描き、すぐ拭き取った。誰にも見せない労いでも、胸の中には出汁のように静かに染みた。