転ばない舞台

鵜殿晶路は、舞台事故で骨盤を砕いた。復帰のために人工関節と平衡装置を入れると、二度と転ばない身体になった。

晶路の回転は軸がぶれず、着地は音もしなかった。観客は奇跡と呼び、劇団は彼を主役にした。演出AIは毎晩、角度を〇・一度ずつ修正した。

けれど晶路は、踊っている実感を失った。跳ぶ前の恐怖も、床が近づく眩暈もない。稽古で相手の重心が崩れても、装置は自分だけを正しい位置へ戻した。彼女が腕の中で苦しそうにしていても、晶路の軌道は美しいままだった。身体は成功を知りすぎていて、決められた場所へ必ず戻った。

昔から組んでいた踊り手が言った。

「あなた、私を見なくなった」

「位置は見えてる」

「位置じゃなくて、私」

晶路には違いが分からなかった。彼女は別の劇団へ移った。

五年後、晶路は引退公演で同じ演目を踊った。客席には彼女の姿があった。演出AIは過去最高の成功率を表示した。

最後の跳躍の直前、晶路は平衡装置を切った。

床が傾いた。客席が遠ざかり、身体がどこへ落ちるか分からなくなった。忘れていた恐怖が腹の底から湧いた。晶路は着地に失敗し、片膝をついた。

音楽は進んだ。

彼は床へ手をつき、笑った。転んだ場所から立つ振付など存在しない。だから、自分で立ち上がった。次の一歩は短く、回転は歪み、彼女のいる方向へ顔が向いた。

終演後、医師は装置の故障を疑った。劇団は映像の修正を提案した。晶路は断り、引退も撤回した。

代わりに、小さな稽古場を借りた。壁には鏡を置かず、床の傷も直さなかった。最初の授業で、生徒たちに転ぶ練習をさせた。人工足首の生徒が「装置を切るのは怖い」と言うと、晶路は隣で一緒に膝をついた。教師になっても、先に正解を見せることだけはしなかった。

「うまく倒れるためですか」と聞かれ、晶路は首を振った。

「立ち上がる理由を、自分で見つけるため」

二度と転ばない身体を捨てたわけではない。晶路は毎回、切るかどうかを選んだ。選べる不安定さの中で、ようやく自分の踊りを取り戻した。