辞書の中の片道切符
相談窓口の机から小さな辞書が落ち、沙羅の足元で開いた。日本語とベトナム語が並ぶ古い辞書。その中央には、色褪せた空港バスの片道切符が挟まっていた。
高校二年の夏、ルアンは窓際の席で、その辞書に毎日言葉を書き足していた。彼は日本で育ったが、家ではベトナム語を使い、どちらの言葉でも「ちゃんと話せない」と笑った。
沙羅は文化祭で彼と案内係になり、外国から来た保護者へ挨拶するため、辞書を借りた。
「返すの、文化祭のあとでいい?」
「僕の日本語より上手になるまで」
「じゃあ一生返せない」
二人は、その一生が同じ町で続くものだと思っていた。
秋の終わり、ルアンの父親が勤め先を失い、家族は急に帰国することになった。最後の登校日、沙羅は靴箱の前で辞書を返そうとしたが、ルアンは受け取らなかった。
「空港まで持っていく荷物、重いから」
そう言って笑い、片道切符を栞にした。
沙羅は「また会おう」と言った。ルアンは少し考え、日本語の授業で質問するように聞いた。
「『また』は、いつ?」
「いつか」
「いつかは、日付じゃないね」
バスが来るまでに答えを決められず、沙羅は黙った。ルアンは手を振り、辞書だけが残った。数回メールを交わしたが、互いの生活が忙しくなり、連絡は途切れた。
二十八歳の沙羅は、外国人向けの生活相談員になっていた。けれど再会の約束だけは、十年以上「いつか」のままだった。
辞書の余白を見直すと、ルアンが書いた例文があった。
〈約束には、場所と時間が必要です〉
沙羅は昔のアドレスへ、辞書の写真を添えてメールを送った。
〈来年二月十日、ホーチミンへ行きます。午後三時、市立劇場の前。会えなくても、本は国際便で返します〉
夜のあいだ、届かなかった場合の国際郵便の料金まで調べた。翌朝、返信が届いた。
〈遅刻しないで。僕は日本語を忘れていません〉
沙羅は片道切符を辞書から抜き、代わりに往復航空券の控えを挟んだ。過去へ帰る旅ではない。曖昧な「いつか」に、初めて日付を与える旅だった。