返しそびれたヘアゴム
自転車置き場の屋根へ駆け込むと、先に彼女がいた。
別れてから三か月、教室では必要なことしか話していない。二人きりになるのは、これが初めてだった。
雨は金属の屋根を激しく叩き、自転車のサドルを次々と黒く濡らしていく。彼女の制服も肩から色が変わっていた。
「傘は?」
「朝、晴れてたから」
「同じ」
会話はそこで終わった。
私は自転車の鍵を回すふりをし、彼女はスマホを見るふりをした。画面は一度も点灯していなかった。
やがて彼女が、手首から黒いヘアゴムを外した。
「これ、返す」
見覚えがあった。去年の体育祭、髪が邪魔だと言う彼女に、私が貸したものだった。百円ショップで何本も入っていた、どこにでもあるゴムだ。
「別にいいよ」
「借りたままだったから」
「今さら?」
「今さらだから」
彼女は手のひらに載せて差し出した。
受け取ろうとして、指先が触れた。濡れた制服より、その一瞬のほうが冷たかった。
「捨てればよかったのに」
「捨てられなかった」
雨音のせいにできないほど、はっきり聞こえた。
私はゴムを握った。言いたいことはいくつもあった。あのときもっと話せばよかったとか、意地を張ったとか、今でも朝の改札で彼女を探すとか。
けれど口から出たのは、「伸びてるね」だった。
彼女は笑った。
「一年も使ったから」
「そんなに?」
「切れなかったから」
屋根から落ちる雨が、目の前に透明な壁を作っていた。向こう側に校門が見える。走れば数十秒なのに、どちらも動かなかった。
彼女が鞄から折り畳み傘を出した。
「持ってるじゃん」
「うん」
「じゃあ、なんで」
「返す時間がほしかった」
傘を開くと、彼女は一人で雨の中へ出た。二人で入ろうとは言わなかった。
私は手の中のゴムを手首にはめた。少し緩くなっていたが、落ちなかった。
翌朝、彼女は教室でいつもの席にいた。目が合うと、私の手首を見て、小さくうなずいた。
元に戻る合図ではなかった。
それでも、切れずに残っていたものを、今度は借り物ではなく自分のものとして持っていていいと言われた気がした。