返事の先回り
片耳に入れるだけで、相手の返事を三秒早く聞けるイヤホンがあった。
ただし予測を最後まで聞くと、相手はその返事以外を言えなくなる。
人の顔色を読むのが苦手な青年は、すぐ手放せなくなった。
「今日、食事に行かない?」
耳元で先に、
『今日は疲れてる』
と聞こえる。
三秒後、同僚は同じ言葉を言った。
仕事の相談。
友人への頼み事。
家族への質問。
断られる前に分かれば、傷つかずに済む。
答えに合わせ、次の言葉も準備できた。
恋人との会話にも使った。
「この店、好き?」
『好き』
「今度の旅行、楽しみ?」
『楽しみ』
「僕といて幸せ?」
『幸せ』
返事はいつも正しかった。
けれど恋人の声は、少しずつ平らになった。
ある日、恋人が食卓で長く黙っていた。
青年は尋ねる前にイヤホンを入れた。
「何か言いたいことがある?」
『別れたい』
最後まで聞けば、その返事になる。
途中で外せば、別の答えが残るかもしれない。
青年は怖くなり、イヤホンを耳へ押し込んだ。
予測を最後まで聞いた。
三秒後、恋人は言った。
「別れたい」
青年は、道具が未来を当てたのか、自分がその答えしか残さなかったのか分からなかった。
「本当に?」
『本当に』
イヤホンが先に告げる。
青年は今度こそ途中で外した。
恋人は口を開き、閉じた。
長い沈黙のあと、
「分からない」
と言った。
予測にはなかった言葉だった。
恋人は、幸せかと聞かれるたび「幸せ」としか言えなくなるのが苦しかったという。
旅行へ行きたくない日も、店が嫌いな日もあった。
小さな違いを話せないうちに、一緒にいる自分が誰なのか分からなくなった。
青年はイヤホンを机へ置いた。
「別れたい?」
もう先回りせず尋ねた。
恋人は泣きながら、
「今日は離れたい。でも、明日も同じかは分からない」
と答えた。
二人は一度、別々に暮らした。
復縁する保証はなかった。
青年は何度もイヤホンへ手を伸ばしたが、充電を切ったままにした。
三か月後、恋人から食事に誘われた。
青年は返事を予測せず、店を選ぶところから話し合った。
意見は合わず、途中で少し喧嘩した。
それでも席へ着いたとき、恋人が言った。
「今日、来てよかった」
イヤホンの声ではなかった。
だから青年は、その一言をすぐには信じず、
「どのくらい?」
と尋ねた。
「今のところ、七割」
「残り三割は?」
「店が寒い」
青年は笑い、上着を渡した。
未来を先に聞かない会話には、断りも迷いもある。
その代わり、予測に存在しなかった温度が、三秒遅れて届いた。