通訳されなかった固有名

百瀬麻琴巡査部長は、通報記録の日本語訳に一本の線を引いた。

港の外国人労働者から噂を集めていた情報屋、ファム・クオンの最後の通報だった。クオンはベトナム語で、密輸組織に自分の住所を売った人物を告げている。公式訳はこうなっていた。

《第七倉庫の男が、名簿を渡した》

だが麻琴には、クオンが「倉庫」と言っていないことが分かった。

《第七警ら隊のハチスカが、名簿を渡した》

ハチスカは蜂の巣を意味する一般語ではない。第七警ら隊長・蜂須賀の姓を、日本語の発音のまま口にしていた。通報の背後では、警察無線の交信終了音も鳴っている。

通訳室で、公式訳を作った主任通訳が向かいに座った。

「方言が強い。倉庫とも聞こえる」

「その直後に『制服の胸に七の銀色』と言っています」

「比喩だろう。クオンは報酬を吊り上げるため、警察官の名をよく使った」

麻琴は末尾を再生した。

――麻琴さん、これを訳す人が警察を怖がったら、俺の声は二度死ぬ。

その一文は、公式記録では丸ごと「判別不能」とされていた。通報の二時間後、クオンは港の宿舎で襲われ、意識を戻していない。第七警ら隊は偶然近くを巡回していたが、到着が十五分遅れたと報告した。

主任通訳は机を指で叩いた。

「蜂須賀隊長は外国人犯罪対策の功労者だ。訳し直せば、君の聞き取り能力と思想まで審査される。契約通訳ではなく警察官でいたいなら、曖昧さを知れ」

麻琴は通報音声の周波数を分離した。クオンの声の直後、男が日本語で「蜂須賀さん、もう切らせます」と言っている。小さいが、固有名は明瞭だった。公式訳にはその声もない。

「聞こえなかったんですか」

主任は答えなかった。

正しく訳せば、第七警ら隊だけでなく、訳文を承認した外事課まで調査対象になる。麻琴自身も、今まで同じ訳文を疑わず読んだ一人だった。

彼女は原音、公式訳、逐語訳を三段に並べた。削られた一文と背後の声へ時刻を付し、誤訳ではなく意図的な省略の疑いと記す。

主任が紙を奪う前に、麻琴は宣誓翻訳書へ署名し、原音媒体と一緒に監察受付箱へ落とした。