進行方向、左側
西園佳純は、ホームではいつも国府田理央の左側に立った。
理央の右耳は、小さい頃の病気でほとんど聞こえない。本人は気にしていないと言うが、雑踏の中で右から話しかけると、曖昧に笑って聞き流す癖がある。
佳純がそれに気づいたのは、同じ電車で通い始めて三か月目だった。それからは何も言わず、進行方向に関係なく左へ回る。
「今日、数学の課題やった?」
「右耳に聞いて」
「聞こえない方へ責任を押しつけないで」
朝のホームでは、そんな話ばかりした。佳純が声を張りすぎると、理央は「左は普通に聞こえる」と笑った。そのやり取りまで含めて、二人の朝だった。
理央が聞き返す前に、佳純は自然と立ち位置を変えた。購買でパンを選ぶときも、廊下を並んで歩くときも同じだった。誰かに親切だと褒められたことはない。理央も礼を言わない。ただ、混雑で離れた日は、彼の方から左側を空けて待った。その無言の空白が、佳純には約束のように思えた。
ある日、佳純が遅れて駆け込むと、電車はすでに入線していた。理央は扉の前で待ち、佳純のために片足だけ車内へ入れていた。
「危ないから先に乗ってよ」
息を切らして右側へ並んだ佳純に、理央は答えなかった。
「聞こえない?」
そう言って左へ移ろうとしたとき、理央が右手で佳純の袖をつかんだ。
「聞こえた」
「じゃあ返事して」
「今日は右でいい」
車内は混んでいた。二人は扉脇に押し込まれ、佳純は理央の右側に立つしかなかった。
「何かあった?」
佳純が少し大きな声で聞くと、理央は窓に映る彼女を見た。
「昨日、補聴器の調整をした。少しだけ拾えるようになった」
「本当に?」
「全部じゃない。でも、今朝最初に聞く声は、右からでも佳純がいいと思った」
電車が動き、車輪の音が会話を揺らした。
佳純は何を言えばいいか分からず、結局いつもの質問をした。
「数学の課題、やった?」
理央は笑った。
「それは聞こえなかった」
学校の最寄り駅まで、佳純は一度も左側へ移らなかった。
右耳へ届くよう、くだらない話を途切れさせずに続けた。