金槌を借りる水曜日
尾形峰朔は、水曜の夜だけ市民工房へ通う。
元倉庫を改装した広い部屋に、作業台、鋸、金槌、糸鋸盤が並ぶ。登録すれば誰でも使え、分からないことは管理人へ訊ける。
峰朔は自宅に工具を置く場所がなく、職場では手を動かす仕事がない。
最初に持ち込んだのは、脚のぐらつく丸椅子だった。
捨てても惜しくない安物だが、座面の高さがちょうどよい。
管理人に見せると、
「直す価値は、値段ではなく座る回数で決めれば」
と言われた。
峰朔は脚を外し、古い接着剤を削った。
隣の台では女性が鳥の巣箱を作り、奥では学生が壊れたラジオを分解している。
互いの名前も事情も知らない。必要なときだけ「その定規、使いますか」「木工用ボンドはどこですか」と声をかけた。
水曜の工房では、会話に前置きがいらない。
職場なら雑談から入り、自宅なら一人で検索する。ここでは「釘が曲がりました」と言えば、誰かが抜き方を教えてくれる。
三週目、峰朔は椅子の脚を接着し直した。
乾燥を待つ間、何もすることがない。
管理人が紙カップのスープを配った。近所の店から余った玉葱スープをもらったという。
作業台の端へ座り、皆で飲む。
胡椒と炒めた玉葱の匂いが、木屑と機械油の中へ混じった。
「何を作ってるんですか」
巣箱の女性が訊いた。
「椅子を直してます」
「座るため?」
「それ以外に?」
「完成記念に飾る人もいるから」
峰朔は笑った。
「家で毎日座ります」
翌週、乾いた椅子へ腰を下ろす。
ぐらつかない。
管理人も、巣箱の女性も、学生も、小さく拍手した。
大げさだと思ったが、少し嬉しかった。
家へ持ち帰ると、椅子は以前とほとんど同じ姿だった。
脚の付け根に新しい接着剤が見え、座面へ工房の木屑が一粒残っている。
峰朔は窓辺へ置き、湯を沸かした。
水曜の工房は、完成品を見せる場所ではない。
曲がった釘を抜き、乾くまで待ち、知らない人から金槌を借りる場所だ。
修理した椅子へ座るたび、玉葱スープと削った木の香りが、職場でも自宅でもない夜の手触りとして戻ってきた。