針鼠と栗ごはん
秋だけ栗ごはんを出す定食屋「木の実」には、店の奥に針鼠がいる。
茶色い針をした雄で、名前はちくわ。店主の沙和が保護施設から引き取った。客席とは硝子で仕切られた小部屋で、夕方になると回し車をせっせと走る。
榎戸巴は、栗ごはんを前にしても箸を取らなかった。
その日の昼、部下を会議室で泣かせた。提出物の間違いを指摘しただけだ、と最初は思った。けれど自分の言葉を思い返すと、昔の上司に言われて嫌だった言い回しばかりだった。
〈これくらい、どうしてできないの〉
帰り際、部下の机へ謝りに行こうとしたが、もう席は空だった。
「冷めるよ」
沙和が味噌汁を置いた。
「私、嫌な人になったかもしれません」
「今日から?」
「前からかも」
「じゃあ、今日気づけてよかったね」
あっさり言われ、巴はようやく箸を持った。
栗ごはんには塩が控えめに利き、ほくりと割れた栗が米より甘い。黒胡麻の香ばしさと、舞茸の味噌汁の匂いが、肩の力を少しずつ下ろした。
ちくわが小部屋から顔を出した。沙和が手袋をして近づくと、針鼠は急に丸まり、固い毬になった。
「怒ってるんですか」
「怖いだけ」
「針を立てるのに?」
「怖いから立てるの。相手を傷つけたいわけじゃないよ」
巴は昼の自分を思い出した。締切に間に合わないのが怖かった。責任を問われるのが怖かった。だから言葉を尖らせ、先に相手へ向けた。
「怖かったって言えば、許されますか」
「許すかどうかは相手が決めること。でも、針を畳むのは自分でできる」
食後、沙和は栗の渋皮煮を一つ出した。艶のある実を噛むと、ほろ苦い皮のあとから蜜の甘さが滲んだ。
巴は携帯を開き、長い言い訳を書いては消した。最後に残したのは三行だけだった。
〈今日の言い方は間違っていました。怖がらせてしまってごめんなさい。明日、改めて話させてください〉
送ると、胸の中の固いものが少しほどけた。
ちくわはいつの間にか丸まりを解き、鼻をひくひくさせていた。回し車が小さく回り始める。
店を出た巴のコートには、炊きたての米と栗の甘い香りが移っていた。夜風に触れても、その匂いだけは尖らず、丸いまま残った。