鍵を貸さない夜

 雨の夜、弟の陸央が玄関でヘルメットを抱えた。

「兄貴、バイク貸して。五分で帰る」

 弦は靴箱の上の鍵を見つめた。

 前の人生でも、母の薬が切れた夜に弟は同じことを言った。弦はゲーム画面から目も離さず「傷つけるなよ」と鍵を投げた。陸央は交差点で信号無視のトラックに巻き込まれた。五分で帰るはずの弟を、弦は二十年待っても迎えられなかった。

 事故現場へ花を置いた帰り、雷に打たれたような光を見た。次に気づいた時、手の中には若い頃のコントローラーがある。画面の中では、あの日クリアしたゲームが止まっていた。弟より先に守った勝利記録を、弦は電源ごと消した。

「兄貴、バイク貸して。五分で帰る」

「貸さない」

 以前とは違う答えに、陸央の眉が上がった。

「母さんの熱、上がってるんだぞ」

「だから俺も行く。車で」

 弦はバイクの鍵ではなく、自動車の鍵を取った。寝室の母へ声を掛け、必要な薬の名前を紙に書く。弟を助手席へ押し込み、雨脚の強い道をゆっくり走る。陸央は五分で済むのにと文句を言ったが、弦には二十年より短ければ十分だった。

 問題の交差点が近づく。前の人生では、陸央は青信号を直進した。弦は手前のコンビニへ車を入れ、停止した。

「薬局は向こうだろ」

「十秒だけ待つ」

 陸央が文句を言い終える前に、大型トラックが赤信号を突っ切った。濡れた道路で横滑りし、交差点の無人の工事柵をなぎ倒す。

 車内から言葉が消えた。トラックが止まった場所には、陸央がいつも信号待ちで足をつく白線があった。弦はハンドルを握ったまま、ようやく肺の奥の息を吐いた。

 薬局から出ると、母から《二人とも気をつけて帰って》と届いた。前の人生では陸央だけに送られ、既読にならなかった文だ。

 午後九時四十八分。

 死亡時刻を示していたデジタル時計が、九時四十九分へ変わる。弟は自分の膝に置いたヘルメットを抱き締めた。

「兄貴……知ってたのか」

「一度だけ、貸して後悔した」

「じゃあ次からも貸すなよ」

 陸央は前を向いたまま、震える声で続けた。

「俺、まだ五分じゃ帰りたくない」

 その夜、弦は初めて、弟を待つのではなく隣に乗せて家へ帰った。