鍵を返したあとで

 管理会社の立ち会いが来るまで、あと二十五分だった。

 亜希は空になったワンルームの床を見回した。颯太が六年住んだ部屋。父から相続した小さなマンションで、亜希は大家、颯太は最初の入居者だった。

 雨漏りの連絡をきっかけに、二人で食事をするようになった。仕事の相談も、失恋の愚痴も聞いた。それでも家賃の振込日だけは、互いに敬語へ戻った。

「鍵、返して」

 亜希が手を出す。

「本当に更新しなくていいんだな」

「転職先から遠いでしょ」

「それだけ?」

「大家としては、通勤しやすい部屋を勧めます」

 颯太は玄関脇の棚に鍵を置かなかった。

 亜希が好きだと言えなかった理由は、一つだった。家を失わせられる側からの好意は、断りにくい。どれほど友達らしく過ごしても、契約書には彼女の名が貸主として載っている。

 だから颯太が冗談で「ずっと住もうかな」と言うたび、亜希は更新料の話をした。

「俺が出たら、もう会わない?」

「修繕がなければ連絡する理由ないね」

「友達としては?」

「大家と入居者が友達って、面倒でしょ」

「面倒にしたの、亜希じゃないか」

 外廊下でエレベーターが止まる音がした。立ち会い担当者が来れば、会話は終わる。

「三年前、俺が付き合ってた人と別れた夜」

「覚えてる」

「亜希、朝までここにいた」

「水漏れの確認」

「水なんか一滴も漏れてなかった」

「予防点検」

「それで通すの?」

 亜希は笑えなかった。大家という立場を盾にして近づき、同じ立場を理由に逃げてきた。

「鍵を返して」

 二度目は、声が少し震えた。

「返したら、亜希は何になる?」

「元大家」

「それだけ?」

「それを決めるのは、契約が終わってから」

 インターホンが鳴った。

 立ち会いは十分で終わった。傷の確認も、メーターの記録も問題なし。颯太は確認書へ署名し、最後に鍵を亜希の手のひらへ置いた。

「これで返した」

「受け取りました」

 担当者が去り、二人だけになる。日付が変わるまでまだ一時間あったが、契約は鍵の返却時点で終了だった。

 亜希は仕事用のスマートフォンを鞄へしまい、私用の端末を取り出す。

「鍵は返してもらった」

「うん」

「でも、連絡先まで返さなくていい」

 近所の喫茶店の地図を送り、〈元入居者を夕食に誘います〉と打つ。肩書きのない最初のメッセージを送信してから、亜希は玄関の施錠を颯太に任せず、自分で鍵を回した。