鍵を返す日
鍵を返せば、大家の嫌がらせは終わるはずだった。
退去立会いの日、私は玄関で古い真鍮の鍵を差し出した。大家は受け取らず、室内を見回した。三か月前から、留守中に家具の位置が変わり、夜になると壁の中で音がし、郵便受けには「返してくれ」と書いた紙が入るようになった。犯人は合鍵を持つ大家しかいない。
「何を返せというんです」
大家は答えず、廊下の突き当たりにある収納扉を見た。私はその前へ立った。
「そこは空です」
昨夜まであった低い咳も、今朝は聞こえない。引っ越し業者が来る前に静かになってくれて助かった、と胸の内で思った。
鍵の溝には、細い青い糸が絡んでいた。今朝、雑巾で拭いたはずなのに取れていない。大家が気づく前に、私は掌で隠した。
警察にも来てもらっていた。大家の不法侵入を証明するためだ。退去後に敷金を返さないつもりなら、この場で被害届を出すと告げていた。私は床に置いた間取り図を示した。壁の中の音がした場所には赤い丸を付けてある。丸はどれも収納を囲んでいたが、配管が集中しているせいだと説明した。
大家がようやく口を開いた。
「前の入居者を知りませんか」
「知りません」
「あなたが越してきた日から、連絡が途絶えたんです」
私は笑った。失踪まで私のせいにするつもりらしい。
警官が鍵を預かり、玄関ではなく収納扉へ差し込んだ。鍵穴はないはずだった。私が貼った木目のシートを剥がすと、小さな錠前が現れた。
扉の奥は空ではなかった。棚板を外した向こうに、人が一人うずくまれる空間があった。青いセーターの袖口がほどけ、同じ色の糸が鍵に絡んでいる。
大家が駆け寄る。
「姉さん」
壁の中の音は、私を脅す大家の仕業ではない。閉じ込めた前の入居者が、隣室へ助けを求めて叩いていた音だった。
郵便受けの紙も、彼女が換気口から押し出したものだった。返してほしかったのは部屋の鍵ではなく、自分の生活だった。
鍵を返して嫌がらせから解放される被害者ではない。
監禁に使った鍵を、警察へ自分で返した加害者だった。