鏡の反対側
羽衣石透は、鏡の中の女だけが逆向きに歌っていることに気づいた。
宝石店を舞台にした新曲MV。現実側の女はカメラへ背を向け、鏡像だけが正面を見ている。イントロのベルが鳴るたび、鏡像は歌詞と違う口を動かした。
「反対を見て」
透は映像を左右反転した。何も変わらない。
彼はこのMVの撮影助手で、女優が現場から消えた夜の証人でもあった。店から指輪がなくなり、防犯映像には女優が鞄へ何か入れる姿が映っていた。透は警察へ「彼女は金に困っていた」と話した。女優は窃盗を疑われたまま失踪した。店側は被害届を出し、ネットには彼女の顔写真が並んだ。透は匿名掲示板でまで「昔から手癖が悪かった」と書き込み、自分へ疑いが向かないよう世論を押した。
Aメロで鏡像が指輪棚を指す。現実側には空の台座。鏡の中には、黒い手袋をした手が映り込んでいる。透は色調を上げたが、顔までは見えない。
二度目のベルで、鏡像が首を横へ振った。
「反対を見て」
透は映像ではなく音声を逆位相にした。中央の歌声が消え、店内マイクの環境音が浮かぶ。衣擦れ。鞄の留め具。自分の呼吸。続いて、棚から指輪を取り、女優の鞄へ入れる小さな金属音。
透の指が止まった。
盗んだのは彼だった。借金を隠すため、撮影の混乱に紛れて指輪を持ち出し、疑いが女優へ向くよう細工した。だが鏡の角度までは確認していなかった。完成版では鏡面が白く飛ばされ、証拠は見えなくなっていた。
最後のサビで鏡像の女が一歩退く。そこへ、カメラの横に立つ透の全身が現れた。手袋を外し、指輪をポケットへ移す姿。女優は鏡越しにそれを見ていたから、撮影後に元データを暗号化して残したのだ。
最後の一音で女は鏡ではなく、画面のこちら側の透を指さした。
「反対を見て」
映像を反転しろという編集指示ではない。疑われた女優の側ばかり見るな。その反対側で証言していた男を見ろ、という告発だった。
透が削除へ手を伸ばすより先に、MVは証拠映像付きで公開された。鏡の中では、女優の姿だけが出口へ消えていった。