鏡の言い値
私の左頬には、生まれつき薄紫の痣がある。
通訳の仕事には口と耳があれば足りるはずなのに、貴族の宴では誰もが一度そこを見る。相手の視線が頬へ止まるたび、聞き取った言葉が頭から抜けそうになった。薄粉で隠すと表情が固まり、顔布を使うと声がこもる。
来月には、隣国の使節を前にした大仕事がある。私は実力で選ばれたのに、失敗する前から痣のせいにしようとしていた。決定打になったのは、婚約者だった人の言葉だ。
――それさえなければ、君は人前に出せるのに。
婚約を解いた後も、その一言だけは鏡の前に立つたび蘇った。彼が贈った首飾りは返せた。借りていた本も、合鍵も返した。けれど言葉だけは返す宛先がなく、私の顔へ貼りついた。
宴で誰かが親切に目を逸らすと、彼の正しさが証明されたように感じた。私は痣ではなく、その記憶を毎朝化粧していたのだと思う。
私は「顔を直す鏡店」で、痣を消してほしいと頼んだ。
店主は銀の鏡をこちらへ向けた。
「顔の一部を変える代金は、そこを変えたいと思わせた言葉の記憶です」
「言った人のことも忘れますか」
「言葉だけ。声も、そのときの表情も、あなたが傷ついた理由も」
安いと思った。あんな言葉、残しておく価値はない。
私は鏡へ触れた。
宴の帰り道。馬車の窓。隣に座る男の横顔。彼の唇が動く。けれど、何を言われたのか聞こえなくなった。胸を刺したはずの一文が、糸を抜くように消える。
店主が白い布を持ち上げた。
「では、どんな顔に変えましょう」
鏡を見る。
左頬に薄紫の痣がある。昨日まで欠点だった場所だ。けれど、なぜ消したかったのかが分からない。花びらにも、夜明け前の雲にも見える。
「お客様?」
私はしばらく考え、首を傾げた。
「すみません。変えたいところが、見つかりません」
店主は布を下ろした。代金はもう受け取ったらしい。
店を出る前、私はもう一度鏡を見た。
痣は消えていない。
消えたのは、他人の言葉を自分の顔だと思い込んでいた記憶だけだった。