鑑定額は三百円

猪熊冴子は七十二歳で、夫の源一郎は七十四歳だった。

源一郎が家を出る朝、冴子は引き止めなかった。彼は若い頃の背広を着て、得意げに小箱を掲げた。

「この指輪は猪熊家の女に受け継ぐものだ。お前より、あの人のほうが似合う」

冴子は湯のみを両手で包んだまま答えた。

「そう。鑑定してもらうといいよ」

午後、源一郎は相手の女を連れて宝飾店へ行った。冴子は少し遅れて同じ店へ入った。

鑑定士はルーペを外し、困ったように指輪を布へ戻した。

「石はガラス、台座は真鍮です。中古品としてのお値段は、三百円ほどでしょうか」

女の笑顔が固まる。

「でも、この人は代々のダイヤだって」

源一郎は指輪を奪い、内側を見た。小さく「北町高校演劇部」と彫ってある。

冴子は声を立てずに笑った。

「文化祭で使った小道具。あなた、結婚してすぐ本物を質屋へ持っていこうとしたでしょう。だから私の母が、同じ形の偽物と替えたの」

「本物はどこだ」

「貸金庫。先月、孫娘へ生前贈与したよ。税理士にも届けてある」

源一郎は女へ向き直った。

「指輪なんか関係ない。俺には家も預金もある」

冴子は鞄から一冊のファイルを出した。家は冴子が両親から相続したもの。預金はそれぞれの名義に分け、生活費口座の残高は水道代を除いて清算済みだった。

最後に、源一郎自身の署名がある離婚協議書を置く。

三日前、彼は「新しい人生に口を出さないなら退職金だけで十分だ」と豪語し、内容を読み上げられたうえで署名していた。公証人役場で作成した写しまである。

女が源一郎の腕を外した。

「家もダイヤもないの?」

「退職金はある!」

「それ、私に言った額の半分だよね。書類に書いてある」

女は店を出ていった。

源一郎は冴子をにらんだ。

「お前、最初から分かってたな」

冴子は首を横へ振った。

「まさか。あの指輪を本物だと信じていたなんて、今日初めて知ったよ」

鑑定士が申し訳なさそうに、三百円と印字された買取票を源一郎の前へ差し出した。