闘技場で剣を置いた日
剣奴イリスの自由を賭けた最後の相手は、白狼だった。
鉄格子が上がり、闘技場へ神獣が放たれる。観客は総立ちになった。白狼を倒せば英雄、食われれば見世物。皇帝は高座で笑っている。
「戦え!」
イリスは剣を構えた。十年、命令どおり勝ち続け、自由を得る条件をそのたび先延ばしにされてきた。今日こそ最後だと誰も信じていない。
白狼も牙を見せ、低く唸る。
だが、飛びかかってこない。
首には黒鉄の輪がはまり、内側の棘が皮膚へ食い込んでいた。唸るたび鎖が引かれ、喉から血が流れる。猛獣に見せるため、調教師が痛みを与えていたのだ。
イリスは剣を落とした。
観客席から罵声が降る。
「臆病者!」
「噛み殺されろ!」
白狼が一歩近づく。イリスは空の両手を見せた。
「私も、その首輪を知ってる」
自分の首にも奴隷印がある。命令へ逆らえば焼ける印だ。観客には勇猛さに見える怒りが、痛みに耐えるためのものだと、イリスだけは知っていた。
彼女は白狼の横へ回り、留め金を探した。黒鉄輪は魔法で閉じられている。剣奴に魔法はない。それでも細身の剣を留め金へ差し込み、体重をかけた。
剣が折れた。
同時に留め金も砕け、重い首輪が砂へ落ちる。
白狼は激しく首を振った。観客が悲鳴を上げ、兵士が弓を引く。イリスは白狼をかばって両腕を広げた。
しかし白狼は襲わなかった。砂の上へ寝転び、傷だらけの腹を彼女に見せた。
イリスは自分の腰布を裂き、首の血を拭った。冷たい水を少しずつ飲ませる。白狼は目を細め、彼女の指を一度だけ舐めた。
調教師は「痛めつければ従う」と鞭を掲げた。白狼はその音に身を固くしたが、イリスが首へ手を置くと、再び伏せた。
高座から皇帝が立つ。
「その獣を鎖へ戻せ。勝負はまだ終わっていない」
白狼の額に太陽の印が燃え上がり、同じ光がイリスの奴隷印を覆った。焼ける痛みはなく、首の印だけが粉雪のように消える。
闘技場が静まり返る。
イリスは初めて、誰の許可もなく砂の上へ座った。白狼は彼女の腿へ頭を載せ、目を閉じた。血を拭われた首毛は驚くほど柔らかく、自由になった重みが、折れた剣よりずっと確かに膝へ残った。