雪の降る住所欄
文月が故郷の市役所から受け取った移住申込書には、希望入居日を書く欄があった。
四月一日、と一度書いて消した。
春なら雪が解けている。引っ越しもしやすく、新しい生活の始まりらしい。けれど、故郷は十一月から三月まで雪に閉じ込められる町だ。春だけを見て住むと決めるのは、都合の悪い半分を読まずに契約するようだった。
東京の玄関には二足の靴が並んでいた。細い革のショートブーツと、先月の下見で買った深い雪用長靴。革靴は駅までの舗装路に馴染み、長靴にはまだ値札の糊が残っている。
市役所から一度、確認の電話が来た。
「空き住宅は十月から入れます。ただ、冬から始める方は少ないです」
声には引き止める響きがあった。文月は、親切だと思った。同時に、その親切を帰らない理由に使いたがっている自分にも気づいた。
二十九歳の今なら、まだやり直せる。三十歳になったら遅い。そんな境目を、文月は自分の周りに勝手に引いていた。だが雪は誕生日を待たずに降る。帰郷も、きれいな年度替わりに合わせてくれない。
机の上には二件の天気通知が表示されている。東京は晴れ、最高気温十八度。故郷は雪、最低気温氷点下二度。どちらも暮らしの全体ではなく、たった一日の予報だった。
候補住宅の写真には、玄関脇の赤い雪かきスコップが写っていた。管理人に確認すると、前の住人が置いていった物だという。文月はそれを便利な贈り物だと思わず、最初の冬を誰かの道具でしのぐ現実として見た。新品を買うか、古いものを使うか。そんな小さな判断が毎朝続くのだろう。
文月は申込書の訂正印を押し、入居希望日を十二月一日に書き直した。雪道講習の申込欄にも丸をつける。怖くないから冬を選ぶのではない。怖いものの名前を先に知っておきたかった。
荷造りの日、革靴は処分せず箱に入れた。長靴は履いていくことにした。東京駅では少し大げさで、すれ違う人の視線が足元に落ちた。
故郷に着く前から、文月は歩きにくさを感じていた。
その不格好さを、帰ったあと誰かのせいにしないため、値札の糊を爪で剥がしてホームへ立った。