靴箱に残した片方
「片方だけでは、歩けませんよ」
スポーツ用品店で、小笠原咲穂が試着用の靴を片足だけ履くたび、桐山智紀はそう言った。
智紀は商品担当、咲穂は販売員。新作が届くと、彼は必ず咲穂のサイズを持ってきた。二人で商店街を歩き、足当たりや滑りやすさを確かめる。試着という名目なら、肩が触れる距離でも不自然ではなかった。
智紀の神戸本社への転勤が決まると、最後の試着日も決められた。咲穂はいつも通り評価表を書き、いつも通り「お疲れさまでした」と返した。転勤を止めたいわけではない。新商品の開発に行くのは、彼がずっと望んでいたことだ。
最後の一週間、二人は試着コースを三度歩いた。交差点の段差、川沿いの石畳、急な歩道橋。智紀は「ここ、前より楽ですね」と笑い、咲穂は足元ばかり見た。顔を上げれば、これが最後だと認めてしまいそうだった。評価表の《継続使用》だけ、いつもより強く丸をつけた。
最終勤務日の閉店後、智紀のロッカーは空だった。けれど咲穂の靴箱には、見覚えのない白い箱が残っていた。
中には、同じモデルのウォーキングシューズが二足。咲穂のサイズと智紀のサイズ。さらに神戸の街歩き地図があり、港から洋菓子店まで赤い線が引かれている。日付は来月の土曜日だった。
「サンプルですか」
背後にいた智紀へ聞くと、彼は首を横に振った。
「私物です。二足とも買いました」
「どうして二足」
「一人で試しても、咲穂の感想が聞けないから」
名前で呼ばれ、咲穂は靴箱の扉を閉じられなくなった。
智紀は新幹線の予約画面を見せる。咲穂の席だけが仮押さえの状態だった。彼女は自分のスマホで確定し、次の月には東京で歩く予定も入れる。
それから白い靴へ履き替え、智紀の足元を見る。彼の靴紐が少し緩んでいた。
咲穂はしゃがんで結び直し、立ち上がると、そのまま彼の手を取った。
「駅まで、試着に付き合ってください」
「評価表は?」
「今度から、二人の予定表に書きます」
店を出ると、夜の歩道が長く伸びていた。智紀は歩幅を合わせ、咲穂も手を離さない。
片方だけでは歩けない。
それは靴の説明ではなく、離れた町へ進む二人が選んだ歩き方になった。