額縁の埃
市立美術館の改装前日、収蔵庫にボランティア札を下げた女性がいた。香坂璃緒。作業用の綿手袋で、寄託作品の額縁から埃を払っている。
新任の主任学芸員は、彼女の手を止めた。
「その絵は海外財団から借りた重要作です。素人はポスターでも拭いてください」
香坂は裏板の小さな割れを指した。
彼女は作品名ではなく、絵具の乾き方と額の木目を見ていた。箱の底から落ちた紙片を拾うと、戦前の展覧会番号まで言い当てた。主任は「ネットで調べた知識」と片づけ、記者向けの説明板には自分の推測を断定調で書かせた。私は紙片の筆跡と、寄託契約書の署名が同じだと気づいたが、主任は比較する前に紙片を捨てようとした。
香坂は紙片を光へ透かし、家紋を削った跡を示した。それは戦時中、没収を避けるため所有者が消した印だという。主任は物語としては面白いが証拠にならないと笑った。
「留め金が逆です。輸送時に圧がかかります」
「ボランティア研修で聞きかじったのでしょう」
主任は彼女を収蔵庫から出し、寄託者名が書かれた古い木箱まで廃棄候補へ移した。私は修復助手として、香坂の指摘が正しいと伝えたが、「新人同士で専門家ごっこをするな」と一蹴された。
午後、目玉作品の開梱が始まった。主任は記者の前で手袋をはめ、作品の来歴を説明した。年代も所有者も、一部が間違っている。香坂は列の後ろで黙って聞いていた。
主任は質問を受けると、彼女を示して笑った。
「今日は一般ボランティアまで参加しているので、多少落ち着きませんが」
香坂は木箱に残る焼印を指した。
「その印は旧蔵家のものです。来歴の空白は戦後ではなく、震災後の三年間です」
主任が退場を命じたとき、文化財団の理事長と市長、海外保険会社の担当者が入ってきた。理事長は香坂へ契約書を差し出す。
「香坂家コレクション全六百点の所有代表、香坂璃緒様です。今回の永久寄託は、香坂様を新館長に迎えることが条件です」
香坂は逆向きの留め金に手を置いた。
「就任後最初の仕事は、作品より肩書を重く扱う人事の再審査にします」