風車小屋の無限書庫
文月栞は、帝立図書院で本より先に擦り切れた。
黒い司書服の肘には当て布が三重に重なり、胸の名札は角が丸くなっていた。閉館後に返却本を戻し、夜明けまで目録を直し、休日には「典籍が見つからない」という緊急連絡で呼ばれる。辞職した日も端末には未読が十七件あった。最後の一件は、ただ《至急》とだけ書かれていた。
古い風車小屋へ移った栞の前に、《無限書庫》が開いた。どれほど本を入れても棚は埋まらず、題名でも一節でも、思い浮かべれば手元へ現れる。栞は町の古書店や個人蔵書家に、小さな返却口を貸した。
本を預けた人には保管料の分配を、読む人には一冊銅貨一枚の閲覧料を求める。代金を入れると複製された閲覧本が現れ、期限が来れば文字だけが書庫へ戻る。原本は傷まない。貸出も返却催促も、書庫自身が済ませた。本は待てる。読者も、司書が眠る時間くらい待てるのだ。
やがて風車小屋の壁には、世界中から読書口がつながった。栞が朝寝坊している間にも、船乗りが海図を開き、学生が古い論文を読み、子どもが絵本を借りる。
《本日の閲覧料:百二十八冊分》
《今月の生活費を充足。追加業務は不要です》
「不要です」という表示に、栞は思わず笑った。図書院では、仕事が終わるほど別の仕事が追加されたものだ。
その午後、元館長から映像通信が来た。
「地下書庫の目録が崩れた。陛下がお探しの典籍もある。今夜中に戻れ」
「退職しています」
「特別顧問の肩書きをやろう。名誉なことだ」
栞は窓辺に積んだ、まだ読んでいない冒険小説を見た。名誉のために読む時間を捨てる生活は、もう十分だった。
「典籍は無限書庫へ預ければ検索できます。契約窓口を送ります」
「機械任せにする気か。司書の誇りはないのか」
「本を守る誇りはあります。職員を壊す慣習を守る誇りはありません」
栞は図書院の通知を永久消音にした。制服の当て布を一枚だけ栞紐へ縫い直し、風車の影に寝椅子を出す。無限書庫から冒険小説の第一巻を呼び、誰にも急かされず最初の頁を開いた。