首輪の小さなポケット
妹の結婚式へ向かう朝、動物病院の裏口の合鍵がなくなった。
動物看護師の神代菜緒は、白衣のまま鍵箱の前で固まった。更衣室には薄桃色のワンピースが掛かっていたが、菜緒は式場近くの駅で着替えればいいと思っていた。最初から病院へ寄らない、という選択肢がなかった。昨夜の遅番は同僚の巽真帆。早朝に保護犬を運ぶ予定だったボランティアの赤星。院内の本鍵を持つ院長の槙野。合鍵へ触れられたのは、その三人だった。
「式、遅れるよ」
真帆に急かされても、菜緒は帰れなかった。鍵の紛失を放っておけば、防犯上の問題になる。それに診察室の奥から、知らない犬の低い鼻声が聞こえていた。
手掛かりは三つ。裏口から続く泥の足跡。処置台の下に置かれた、まだ温かい湯たんぽ。そして足跡の主らしい茶色い老犬の首輪に、鍵箱の名札と同じ青い糸が引っかかっていること。
老犬は、菜緒が新人の頃に保護し、里親へ送り出したポポだった。飼い主が昨夜急病で運ばれ、赤星が一時預かり先を探して連れてきたのだという。
合鍵を持ち出したのは真帆だった。夜中、赤星を裏口から入れ、朝までポポを看たあと、その鍵を首輪の小さな迷子札ポケットへ入れた。菜緒が出勤しても見つけられないよう、わざとだった。
「どうして隠すの」
「見つけたら、式を休んで残るから」
真帆は即答した。
菜緒は過去二年、休日の呼び出しを一度も断っていない。妹の衣装合わせも、両家の食事会も、急患を理由に欠席した。今日もドレスの下に白衣を着てきたことまで、真帆には見抜かれていた。
「ポポは私と院長で看る。飼い主さんのご家族とも連絡がついた。あなたにしかできない仕事は、今日はお姉ちゃん」
勝手に鍵を隠したことを、真帆は頭を下げて謝った。赤星も槙野も計画を知っていたらしい。槙野は、菜緒の白衣をつまみながら「今日それを着る人は足りている」と静かに言った。
菜緒がしゃがむと、ポポは昔と同じように右手を差し出した。その首輪から合鍵を抜き、真帆へ渡す。
式場へ着く直前、妹から「まだ?」とメッセージが来た。
菜緒は駅の売店で小さな苺サンドを一口かじり、返信した。
「今、お姉ちゃんになります」