鯉は一語ずつ

祖母は施設へ入ってから、ほとんど話さなくなった。

孫が名を呼んでも笑うだけで、昔のことを尋ねれば窓の外を見る。

忘れられたのだと思うと、訪ねる足が少しずつ遠のいた。

施設の池には、赤と白の鯉がいる。

職員からもらった翻訳餌を一粒ずつ投げると、鯉が水面で口を開いた瞬間、一語だけ人の言葉になるという。

孫が試す。

赤い鯉が浮かぶ。

「火曜」

次の鯉。

「ベンチ」

次。

「待つ」

意味が分からない。

職員に聞くと、祖母は毎週火曜、池のベンチへ長く座っていたという。

孫が以前、火曜に来ることが多かったからだ。

訪問を減らしたあとも、その習慣だけ残ったらしい。

「私を待ってたの?」

祖母に尋ねても返事はない。

代わりに白い鯉が口を開く。

「赤」

祖母の膝には、赤い毛糸の袋があった。

中から小さな魚の編みぐるみが出てきた。

片方のひれがまだない。

孫は幼い頃、赤い魚を欲しがった。

祖母は編むと言い、忘れたのだと思っていた。

今も少しずつ続きを作っていたのかもしれない。

けれど祖母自身は、袋を見ても首を傾げた。

孫は翻訳餌を次々に投げた。

「手」

「遅い」

「パン」

「光」

鯉の言葉は、祖母の心を説明してくれない。

池で見た動きや、落ちてきた餌や、日の具合を一語にしているだけだった。

孫は焦り、

「おばあちゃんは私が誰か分かる?」

と大きな声で聞いた。

鯉は沈んだ。

祖母も笑わなくなった。

孫は餌の袋を閉じた。

自分が欲しいのは記憶の証明で、祖母が今見ているものではなかった。

次の火曜、何も尋ねずベンチへ座った。

祖母へ赤い毛糸を渡し、自分は白い糸でひれを編んだ。

二人とも上手ではなく、何度もほどいた。

池の鯉が口を開けても、翻訳餌はないので水音しかしない。

祖母は突然、孫の手を指して言った。

「遅い」

孫は笑った。

昔よく言われた小言だった。

名前を思い出したのか、編み方を見て言っただけかは分からない。

完成した魚は、赤と白で左右のひれが違った。

祖母の部屋へ飾る。

翌週には、祖母は誰が作ったか忘れていた。

それでも火曜になると二人で池へ行った。

鯉の一語より短い会話の日もある。

ただ同じベンチへ座ることは、記憶がなくても続けられる約束だった。