鯖味噌の骨をよけて
閉店札を掛けようとした店主の手元へ、若い客の影が伸びた。客は店の前で立ち止まり、帰ろうとしてから、もう一度振り返った。
「鯖味噌、残ってますか」
「一切れだけ」
店主は札を脇へ置いた。
小鍋で温め直された鯖味噌は、煮汁がふつ、ふつと重い音を立てた。生姜の香りと赤味噌の甘い匂いが湯気に混じり、銀色の皮には照りが戻った。皿へ移すと、骨の周りから透明な脂がにじんだ。
客の母からは、朝から何度もメッセージが届いていた。祖母が施設へ移ったため、古い実家を取り壊すことになった。明日、片づけ業者が入る。残したいものがあれば今夜までに連絡して、と書かれていた。
客は返信しなかった。実家を守れるわけでもないのに、一つだけ欲しいと言うのが負けたように感じた。子どものころ祖父と使った工具箱も、台所の柱についた身長の傷も、取り壊されると知ってから急に惜しくなった。けれど仕事を休んで戻る余裕はない。
箸で鯖を崩すと、細い骨が身の間から現れた。避けようとして、柔らかな身まで皿の端へ散った。
「きれいに食べるの、難しいですね」
客が言うと、店主は厨房の時計を止めながら答えた。
「骨は置いていけばいい」
鯖は甘辛く、皮の近くには強い脂があった。生姜の薄切りを一緒に噛むと、こってりした味が少し軽くなる。骨を一本ずつ拾って小皿へ置くうちに、全部を残すか全部を捨てるかしか考えていなかった自分に気づいた。
スマートフォンを開き、母への返信を書く。
《祖父の工具箱だけ取っておいて。運べなければ、中の小さい金槌だけでもいい》
送信は明日の朝では間に合わない。客はその場で指を押した。既読はつかなかった。母が怒っているかもしれない。工具箱がもう処分されている可能性もある。家がなくなることは変わらない。
それでも、何も言わずに全部を失うより、一つだけ選んだ。
店主が閉店札を掛けた。最後の身は骨際に少しだけ残っていて、箸先でそっとすくった。味噌は冷めかけていたが、脂の甘い温度が舌の上に長く残った。