鹿はお辞儀を数えない

 蓑田小春は、古い神社の授与所で働いている。

 参拝客へお守りを渡し、道を尋ねられ、写真を頼まれる。一日に百回は頭を下げるので、帰宅してからも棚へぶつかると反射で「すみません」と言った。

 境内には鹿が一頭だけ住みついている。

 近くの山から降りてきた雌で、神職が役所と相談しながら見守っている。人に慣れすぎないよう、餌は決められたものだけ。それでも小春が鹿用の煎餅を持つと、必ず授与所の前へ来た。

 名前は奈々。七つ数える前に現れるからだ。

 奈々の声は、小春がお辞儀をした瞬間にだけ心へ届く。

『また下げた』

「お客さまだから」

『角もないのに、頭を下げすぎる』

「角があったら危ないでしょう」

『論点が違う』

 ある日、小春は旅行客へ違う種類のお守りを渡しかけた。

 すぐ気づいて交換し、相手も笑って許してくれた。それでも小春は閉門後まで落ち込んでいた。

 授与所の前を掃きながら、何度も同じ場面を思い返す。

 奈々が石畳へ降りてきた。

「今日は煎餅、もうないよ」

 小春が頭を下げると、声が届く。

『鹿は枝に角をぶつけても、山へ謝らない』

「山が困らないから」

『客も困っていなかった』

「間違えたことは事実でしょう」

『直したことも事実だ』

 奈々は鼻を小春の袖へ近づけ、何もないと分かると離れた。

 その潔さが少し可笑しかった。

 小春は授与所を閉め、休憩室で焙じ茶を淹れた。湯気に炒った茶葉の香りが立つ。窓の外では奈々が枯葉を踏み、のんびり草を探している。

 間違いは消えない。でも直したあとまで頭を下げ続けなくてもよいのかもしれない。

 翌朝、旅行客から神社の案内所へ葉書が届いた。

〈丁寧に対応してくれた巫女さんへ。旅のよい思い出になりました〉

 小春は読んで、誰も見ていないのに頭を下げかけた。

 窓の外で奈々がこちらを見る。

「ありがとう、だけでいい?」

『首が楽だ』

 小春は笑った。

 夕方、線香の淡い煙と焙じ茶の香りが境内へ流れた。

 奈々は石灯籠のそばで脚を折り、小春も縁側へ腰を下ろす。

 お辞儀をしなければ声は聞こえない。それでも隣にいる気配は分かった。

 風が鹿の毛を撫で、小春の肩から、一日ぶんの重さを静かに運んでいった。